まみずハルカブログ

私の日常もあなたの非日常。とにかく雑多に書いてます。

2019アウトプットまとめ③〜私の話〜

 

 

私が1円にもならないブログを書き続ける理由

 

私は2年前からこのブログを書いています。

 

初めは、アフェリエイトで稼げるかもと思っていましたが

お金のために記事を書き続けることは私にはできませんでした。

 

なぜならブログの性質上、初めの1年間はアクセス数が伸びないからです。

お金のために、1年間無給で書き続けるのは相当に根気がいることだと思います。

(だから、ガジェット系のブロガーさんは尊敬してます。)

 

だから、私のブログ投稿の軸としては「自分の書きたい事を書く」という事です。

売れっ子のブロガーさんに「それ、どこに需要あるんだよ!ニーズを見極めろ!」とか言われそうですが、やはり私はこの軸をぶらす事はできません。

 

では、なぜこのブログの書き方に私は執着しているのでしょうか。

なぜ、この1円にもならないブログを書き続けているのでしょうか。

 

理由はいくつかあるので挙げていきますね。

 

・自分のことをデータ化するため

 

私がブログを書く一番の目的はこれかもしれません。

人の記憶はとても曖昧で、どんな経験をしてもどんな学びがあってもすぐに忘れてしまいます。

私にとってそれは、とても恐ろしいことでした。

自分の人生を後から見ようとしても、ぼんやりしてしまいます。

だから、自分の考えや起こしたアクションなどを記録することで後から振り返りやすくなります。

また、ネット上で公開することで、この先見てくれるであろう潜在的な読者にも自分の思いを伝えることができます。

 

 

・直接人に言えないことを伝えるため

 

日常生活では、人と関わります。しかし、人を傷つけないように細心の注意を払うのが現代人は身についていると思います。

私も例外ではなく、人に言って良いことと悪いことをわきまえているつもりです。

しかし、心の中では誰しももっと深く考えていることがありますよね。

そういったことをブログに書くことで、人の共感や反対や意見が得たいのだと思います。(あるいは、自己顕示欲を満たしたいのかも。)

 

・自分の心の整理のため

 

自分の心のうちでうっすら思っていることを文章化すると

自分の考え方が浮き彫りになってきます

「自分はこういう人!」となんとなく思っていても、そこに成長はないなと思います。

だから、自己分析のために自分のことを文章化しています。

書くことによって、見えていなかった自分の特性が見えてくる感覚がします。

これは、文章を書き出してからしか分からなかったことだと思います。

 

・文章力強化のため

 

私は、文章力をつけたいと日々思っています。

文章を通じて、たくさんの人に発信したいからです。

将来、小説か何かを書いて出版したいです。

そのためには、文章を書き続ける根気がなくてはなりません。

また、わかりやすい文章を心がけなければなりません。

だから、「文章を書くこと」を習慣化させようと思ったのです。

 

 

・ストレス発散のため

自分をさらけ出すことは、よいストレス発散になります。

おしゃべりな人の方が、無口な人より長生きなのもストレスに起因しているそうです。

(プライバシーを守りつつ)自己開示していくことは、精神の安定に役立っていると思います。

実際、私はブログを書き始めてから明るくなった気がします。

自分の内に秘める事は自分を守っているようで、心を蝕んでいるのかもしれませんね。

(また、キーボードを打つ感覚もハマるとストレス発散になります!)

 

以上、私が1円にもならないブログを書き続ける理由でした。

たとえツールが変わったとしても、これからも書き続けたいなと思っています。

 

 国立大学生が日本の学校教育に難癖をつける

 

クラスメイトと授業の話をする場合

 「眠い」とか

「テストやだー」とか悲しいことに、ネガティブなことばかり言いますよね。

(好きな授業の話題が出る確率約0.5%...)

 

嫌なら授業を受けなければいいのですが徹夜までして、しっかり勉強するのです。

(今の教育上、自由な学びというのは少ない気がします) 

 

最初から勉強したいものだけをすれば幸せですよね。

興味が変わったらその時に、勉強内容を変える方が勉強意欲も増すし、知的好奇心も養えると思うのです。

 

「学ぶ」という行為は大切だと思うので学ぶ練習の場として学校の存在は必要だと思います。

 

しかし、興味の湧くような内容であっても、それを無理にやらされたら生徒のやる気が失せてしまうことは不可避でしょう。

(暗記は勉強ではないんだよな...)

 

また、先生と合う合わない(好き嫌い)でもその教科の好き嫌いが分かれてしまうと思います。

 

 先生を選ぶという生徒の権利は尊重すべきだと思います。

(早く、動画での授業で1科目あたり100人の先生がいて、そこから選べるような時代になったらいいのにね)

 

昭和の授業と今の授業ほとんど変わっていない気がします。

(昭和の授業を受けたことがないから分からんけど...)

 

グローバル化 、IT化と謳われ社会のあり方は猛スピードで変化していますが、教育は変わりにくいですね。

 (昭和の教育にどっぷり浸かってきたようなおじさんが教育プランを作ってんだろうな)

 

仕事でも結局、今の技術が使えればOKで開発している人はほんの一握りの人間ですよね。

 

つまり、「応用より基礎」とバカの一つ覚えみたいに言われる文句は将来の仕事においては成り立っていないことも多いように思えるのです。

 (仕事って最初から応用だよね)

 

既存の技術を掘り下げて、根元(公式、法則)を教わったとしてもそれらの繋がりを理解していなければ、その勉強は意味を持たないと思います。

(教育の不満は永遠と語れるのでまた、別の記事にあげよー)

 

もっと実用的な教育になればいいなと思いました。

(愚痴っぽくなってしまった...いかんいかん)

 

(教育は課題が多すぎて私の手には負えないと思い、教育の仕事には絶対つかないと高校生の時悟りました笑

やるなら根本から変える必要があり、教育業界に構える大人達に対抗するエネルギーは私にはないです笑)

 

周りには多くの問題が溢れていますが、それに関わったら自分の時間の多くをそれに費やすことになるため問題解決はものを選んでしなければなりませんね。

 

私がAKBよりモー娘が好きな理由

 

AKBとモーニング娘。の特徴の違いを私なりに分析していきたいと思います。

(※「どの子が推し!」とかの紹介ではありません)

 

私は、AKBよりモーニング娘。が好きです。

この二つのグループはどちらもアイドルのトップ集団ですがカラーが違いますね。

だから、人によって好みが分かれると思います。

(他のアイドルについては今は置いときます)

 

共通点は若い女の子が一生懸命に青春を費やして歌ったり踊ったりしているところですね。

アイドルが頑張ってる姿は元気をもらえるからアイドルヲタクが増殖し続けてるのです。

 

さて、AKBとモーニング娘。の違いをあげようと思います。

(総合的に見た印象です)

 

<AKB >                                       <モー娘>

かわいい          かっこいい

声が高い          声が低め

人数が多い         人数がそこそこ

清純派           テイストが色々

    

こんな感じですかね。

 

AKBの子笑顔をいつでも振りまき、見た瞬間人を癒してくれる感じがします

 

一方、モー娘かっこいいテイストの曲が多いです。

キメキメの顔で歌っていて、応援したくなります。意志が強いように見えるのです。

また、ダンスの振りガニ股になったり、お腹から低い声を出すパフォーマンスがあったりと

恥ずかしがっていては成り立たないです。

 

AKBはこのようなパフォーマンスはない(少ない)と思います。

(恥ずかしがっている=かわいい  になるから)

AKB系列のアイドルはグループごとにテイストが違いますが

それぞれのグループのテイストは固定ですよね。

(RIVER以外かわいい系?)

 

一方、モー娘は曲ごとにかわいい系、カッコイイ系ざっくばらんなのでテイストがコロコロ変わります。

 

曲のテイストが変わるということは、アイドル本人自身のテイストも変わってきます。

だから、いろんな面のアイドルを見ることができます。

 

以上の理由で、私はモー娘の方が好みだなと考えました。

 

月間漫画の付録について〜子供時代〜

 

今はほとんど月間漫画というものを買わないのですが、小学生の時よく買ってもらっていました。

 いつ買ってもらっていたかというと、留守番の時や新幹線に乗る時です。

 私は小学館から出てる「◯◯年生」や

ちゃお」や

なかよし」や

リボン」を

読んでいた記憶があります。

 

友達が読んでいたからという理由もありますが。

 

一番の原因は付録でした。

 

本に付いている分、お得感があるキラキラしているものが多かった気がします。

 

カンペンケースラメ入りのペン

キャラクターがついたシール

何に使うかよく分からないポーチ

色々ありました笑

 

なぜか普通にメモ帳やペンをお店で買うより特別にそそられるものがあるんですよね。

 

中身を知っているにも関わらず開ける時のワクワク感がありました。

 

あの感覚を今、取り戻すことはできないのかな寂しくなります。

 

大抵、他の人も同じ漫画を買っていたりして持ち物が被ってしまうのにそんなことは気にしません!

 

だったら雑誌でついてくるもの(バッグなど特に)を使うのがためらわれます。

 

また、付録としてついてくるものは実用的でないものが多かったです。

 

それこそお店で買うよりチープな素材?ですぐ壊れるようなものだったり使いにくいものが多かったです。

 

プリンの顔のついた判子いつ使うねん!という感じです。

(1~2回使って終了〜)

 

それでも当時は、大切に保管していました。(今も探せば出てくるかな)

 

おそらく、今はもっと魅力的なものが周りに溢れているため

小物単体目が行かなくなったのだと思います。

 

小さい頃は自分の私物といえば文房具くらいしかなかったはずなので

極端に意識が向いていてその結果かなと思います。

(自分の趣味が反映されるのは文房具くらい)

 

おそらくこの感覚は戻ってきません

当時、大切に持っていたシールやメモ帳はこれからも取っておこうと思います。

 

私の洋服事情

 

私は、もともと服が大好きでたくさんの服を購入していました。

街を歩けば、古着屋を物色していました。

ウィンドーショッピングに限界を感じ、通販で効率よく洋服を選ぶようになりました。

 

たくさん服を買うと当然、着ない服も出て来ます。

私は、いらなくなったもの(着なくなったもの)を捨てるのが得意なので

これらの服をじゃんじゃん捨てていました。

これが約1年前の私です。

 

今の私は 、服をあまり買わなくなりました。

なぜなら、バイトをしてない分際で買いまくるのは気が引けるからです笑

服を買う習慣が無くなると、不思議と服に対する物欲が薄れていくのです。

習慣って怖いですね。

「服を買うぞ!」と意気込む前に、息を吸うように服を買っていたら

服が増えて当然ですよね。

 

服を買う量は減りましたが、捨てるのは今までと同じペース

 つまり、クローゼットの中の服が減少しているのです!

 

思えば、

私たちは破れたり汚れたりしていない服を捨てますよね。

 

ファッションのために服を買い換えるというのが当たり前になっていて

何回も来た服を古い服と思って飽きて捨ててしまいます。

 

安い服をたくさん買ってたくさん捨てるという文化ですね。

 

一方、ミニマリストの人は全部で10着くらいに収めるらしいです。

 丈夫な服をずっと着るということなのでしょう。

 

安い服を買っては捨てていた自分にとって、ミニマリスト系に進むのか

はたまたファストファッションを続けるのか決めかねます。

 

ものが良い服を飽きずに着る事ができるのか。

いろんなテイストの服を着てみたいのか。

 

年齢を重ねる度に模索する事ですね。

 

おそらく、ミニマリストになる!と極端なことはしないと思いますが

 

チープな服を買いまくることもまたしなくなるのかなと思います。

(福袋買ってないな...)

 

洋服との関わり方は年々変わってきますね。

1年後くらいに再び洋服事情については言及しようと思います。

 

 

 私の「将来の夢」はこう変わっていった!

 

将来の夢は、年齢によって変わって行くと思います。

 特に子供の頃は、常に何かに影響を受けるため、

将来の夢もコロコロ変わります。

 

ここで、私の将来の夢歴を分析していきたいと思います。

 

<保育園時代>

編み物屋さん

→理由は、当時編み物がとにかく流行っていて、家でも保育園でもハマっていたから。職業として、編み物屋さんというものがあるのかは未だにわかりません。発展途上国には、あるかもしれないですね。

 

幼稚園の先生

→理由は、小さい子のお世話(遊ぶ)のが好きだったから。単純ですね。幼稚園の先生は幼児と遊ぶだけが仕事ではもちろんありません。

 

<小学校時代>

宇宙飛行士

→理由は「女の宇宙飛行士」というイメージがカッコよかったから。当時、山崎直子さんが脚光を浴びていたと思います。その影響ですね。

しかし、虫歯の人はできないと知り諦めました笑

大学の先生

→理由は、お金持ちそうだと思ったから。また、大人に言っても恥ずかしくないと子供なりに感づいていたから。実際、仕事内容は全く知らなかったです。まさか、研究が仕事だったなんて....

 

<高校生時代>

海上自衛官

→理由は「女性の自衛官」というイメージがカッコよかったから。しかし、よく調べると厳しそう(自由が少なそう)であることが判明。防衛大に行かなくてよかったと思っています。

建築家

→理由は物理が得意だったから。また、家のデザインを考えるのは面白そうだったから。建築家は一握りの天才しか自由に建物を建てられないことがわかり断念。

 

<大学生時代>

起業家

→理由は、留学で起業の考え方に影響を受けたから。しかしあまりにも、大きいリスクを負うことになるので決断できなかったです。

サラリーマン

→安定した職業を持った上で、副業をして軌道にのったらやめるという構想から。

フリーランス

→一つの職業にとらわれず好きな事を好きなタイミングでできるのに魅力があるから。

研究者

→自分のアイデアで物が作りたいから。(自分の成果が会社の利益になるのは嫌だ...)

 

こんなところでしょう。

小さい頃は、たまたま出会ったものにすぐ影響を受けている感じがします。

一方、年を重ねて行くと視野を広く持って決めている気がします。

 

よく将来の夢はどんどん現実的なものになってしまう...

悲しそうに言う人がいますが

それだけ

「視野が広くなった!」と思えば良いのだと思います。

 

全く、将来の展望が見えていないモラトリアムな私ですが

自分なりの人生を送りたいと思います。

 

 マスクマンだった私がマスクを脱ぎ捨てた理由

 

みなさんの周りにもマスクマンが一人はいるのではないでしょうか。

 私の大好きだったマスクについて書きたいと思います。

 「大好きだった」という過去形からわかる通り、今はマスクをすることはほとんどありません。

しかし高校生の頃は、冬になると頻繁にマスクをしていたと思います。

 

一般的に、風邪予防・喉の保湿がマスクの効用ですが私はそれ以外の用途が多かったです。

 

まずは、肌の保湿のためという理由からです。

これは自分の吐く息に含まれる水蒸気によって肌が潤うという理屈により使っていました。

(おそらく、ネットの情報で始めたのでしょう)

 しかし、ネットの情報というのもあって信ぴょう性に欠けますね。

そして、私は別のネットの情報と自分の経験から判断して、マスクは肌に良くないと結論づけました 。

長時間、マスクをつけていると雑菌の繁殖の原因になることと マスクと肌に少なからず摩擦があることが最大のマスクをやめた理由です。

 

「肌に良い」と思っていても実際は悪いということがあるので多面的に物事を見なければいけませんね。

 

もう一つ、私がマスクを多用していた理由として「人に顔を見られないようにするため」というのが挙げられます。

 

顔のニキビがひどい時やメイクをしていない時など

 とにかく自分の顔をさらけ出すのが恥ずかしいと思った時や外に出るテンションになれない時にマスクをします。

 

マスクをすることで、「知り合いに偶然会ったらどうしよう」と恐れながら外に出る必要がなくなるため気が楽なのです 。

これは一見、便利に見えますが習い性になるのは危険だなと思いました。

 

なぜなら、「自分の顔=マスクをした顔」というのを定着させてしまうと自分のリアルを覆い隠すのが当たり前というメンタルになるからです。

 

もちろん、それを言うなら女性がメイクをするのも「リアルを隠す」ことではありますが

 マスクはやりすぎです。

マスクをつけて自信を持って振る舞いたいというより隠れたいという欲求の方が強いからです。

 

メイクはリアルの自分より綺麗に見せて自信を持って行動したい!というポジティブな動機付けなのに対して、

マスクの場合はネガティブな動機な気がします。

 

もちろん、今の私でもテンションが下がって朝から外に出たくない!と思うことはあります。

 

しかし、これも本当の私なんだ!と思うことで諦めて外に出ています笑

 

この悪い状態の私を見て嫌いになったり、態度を変えるような人はろくな人ではないはずです笑

 

「良い状態の私=本当の私」として私自身が思い込んでしまうのは傲慢な気がします。

 

こうして、私はマスクを脱ぎ捨てました!

 (ついでに、花粉症も発症しなくなったからもうマスクはいらない)

 

健康茶の味が好き

 

 

ルイボスティー

マテ茶

ドクダミ茶

人参茶

苦茶

ハトムギ茶

 

以上は私が今まで飲んできた「癖のある味」を持ったお茶です。

健康茶の代表例ともいえるでしょう。

(ドラッグストアの健康食品コーナーに陳列されているイメージ)

 

これらは、決まり文句として「健康に良い」と売られています。

 

正直「健康になった!」と感じることはないですが、

 ハトムギ茶を飲むとニキビができにくくなると言われてしまうと

ニキビに悩んでた頃は、飲まないわけにはいきませんよね。

 変な味のものこそ、効果がありそうな気がしてしまいます。

 

まさに、「良薬は口に苦し」という刷り込みがあるのかもしれませんね。

 

半年前くらいに、常飲茶をハトムギ茶から烏龍茶に変えました。

そして、烏龍茶はなんて美味しいんだろうとずっと飲み続けてきました。

 

最近では烏龍茶に飽きたため、思いつきでルーボスティ を買ってみました。

 飲むとなぜか懐かしい味がしました。

  

普段お茶をたくさん飲むのですが、毎日のお茶のレパートリーが増えて嬉しく思います。

ちなみに、ルイボスティはカフェインフリーであるため常飲するにはとてもオススメです!

 

 

飲み物に限らず癖のあるもの(香辛野菜など)は最初は変な味だと思って距離を置いてしまいがちだと思います。

しかし、食べ出すとむしろ好きになってしまうことがありますね。

  

 味の許容(?)を広くすることで、食(飲)がもっと深く楽しめると思います。

 

だから、パクチーが嫌いな人も勇気を出してパクチーを貪ってみてください。

(パクチーが苦手な人でも何回もトライしてみたら、治るのでは?)

 

よくバラエティでセンブリ茶を芸人が罰ゲームで飲んで顔を歪めていますね。

私はセンブリ茶を飲んだことないのでどれくらい苦いのかは分かりませんが、いつか挑戦したいと思っています笑

 

知り合いに似てると言われたらスパイになろう!

 

先日、インターンに行ってきました。

(もはや、いろんなインターンに行くのが趣味になってる笑)

 また、言われましたよ。

「私の先輩にめっちゃ似てる人がいる!」と。

 

私は、「知り合いに似てる」と言われることが結構あります。

 

雰囲気が似てる」とか

喋り方が似ている」とかを含めると

何回言われてきたことか。

(何十回言われてきたことか。)

 

「昨日、◯◯に居たでしょ?見たよ。」とか

「間違えて違う人に声かけっちゃった!」とか

酷いのになれば、「旅行先(海外!)で見たよ。」と言われることもあります。

 

その度に、「私のドッペルゲンガー何人おるねん!」と心の中で突っ込んでいます笑

 

私は個性的なファッションが好きで人と被らないようなものを好んで着ます。

にも関わらず、「似ている」と言われるのは

よっぽど顔が似ているのでしょうか。

 

私の主観では、私自身の顔を掴みどころの顔だと思っています。

美人でもなければブスでもないということです。

 

 

日本人全員を並べた時に、私の顔がちょうど真ん中にくるのではないかなと思います。

(平均顔ではなく中央値顔という言い方が正しいかも...)

(顔出しはしないつもりですが...)

 

顔に良い意味でも悪い意味でも特徴がないので

芸能人にはなれないと思います。

 

美人ではなくても特徴的な顔はやはりインパクトがあり

顔を覚えてもらいやすいと思います。

芸人さんも含めてこれは言えますね。

 

反対に、自分が向いているのはスパイかなと思います笑

スパイは自分の顔を覚えられないようにするのは鉄則ですね。

スパイになる気はないですが、

なったとしたら怪人二十面相も夢ではないかもしれません。

 

話は、逸れましたが

「知り合いに似てる」と言われるのは反応に困ります

大抵、嬉しそうに私の反応を見ながら言ってくる方が多いです。

しかし、私も嬉しそうに対応するのは何か違うと思うのです。

私自身は、その似ている方がどんな方なのか分からないからです。

未だに、正しい回答はわかりません。

 

ただその人が私とコミュニケーションを取ろうとしてくれているというのは事実です。

だから、毎回笑顔で対応しています。

 

ネットを調べると

誰かに似ていると言われたくない人が多いそうです。

しかし、似ていると言ってくる人はそのことを伝えたいという意思があるはずです

つまり、嫌と思う必要はないと思います。

 

ゲーマーとは対極にいる私のゲーム人生

 

 

私のフィールドではない「ゲーム」について語ろうと思います。

 

現在、私はゲーム機所有数0・スマホのゲームアプリ0という

ゲームから隔離された生活しています。

 

しかしこんな私でも、昔はゲームを1日中しているほどハマってた時期があるのです。

 

発端は、小学校1年生の時に買ってもらってDSだと思います。

多分、初期のやつです。

 

ポケモンダッシュ」というポケモンがいかに早く走るかを競うソフトを買ってもらいました。

初めて、買ってもらったソフトだったので何時間もDSに食らいついていた記憶があります。

(今考えるとクソゲーだよな...)

 

その他に、思い出に残るソフトは「わるお」です。

これは気が狂ったようにやっていました

クリアした所も、やれるところまでやり続けていました。

結果、DSの画面が崩壊してしまいました。

(画面がビリビリに笑)

 

これらは頭を使うものではなく、単純作業のようなゲームでしたね。

でもこれこそが「ゲームの中毒性」の原因だと思います。

 

他には「たまごっちがありました。

友人たちはは首からたまごっちをぶら下げて遊んでいました。

帰る時間もたまごっちの時間を見て帰れるため、時計の代わりにもなって便利ですね。

(親が置い与えやすいのかもしれない)

 

私が持っていたものは普通のサイズではなく中くらいのサイズでした。

 ミニゲームをひたすらやり続けていたと思います。

常にたまごっちを携帯し、合間合間にいじっていました。

 

「たまごっち」に飽きたきっかけは、はっきりと覚えています。

時間の設定を変えると、新しいキャラ(?)が来ることを知った時です。

 

その後は、iPodやスマホのゲームにハマりました。

RPGなどの映像綺麗系のゲームは一切手を出さず、ハマるのはやはり単純系のものでした。

 

テトリス

パックマン

蛇のやつ(名前知らん)

球を壊していくやつ(名前知らん)

 

これらが、特に時間を費やしたゲームだと思います。

(昭和に存在していたゲームばかり笑)

肩や手を痛めながらずっとやっていました。

「クリアした!」と思うためではなく、義務として無心にやっていたと思います。

(この感覚わかるかなー?)

 

このように、一生分のゲームを小中高でやりきったと自負しています。

だから、大学に入ってからゲームをほとんどやっていないです。

(そういえば、Wiiも家にあったのにそこまでハマらなかったな...)

(きっと、ゲーム好きの人は「単純系は真のゲームではない」って思うんだろうな...)