まみずハルカブログ

私の日常もあなたの非日常。とにかく雑多に書いてます。

私なりに宗教論を長々と書いてみる

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こんにちは、まみずハルカです。

ついに書くときが来ました!今回は宗教についての話題です。

宗教といっても、具体的な宗派について書くというよりは、それらの宗派の共通点から考えた私なりの宗教論を述べていきます。(圧倒的文系・・)

 

私は、宗教の存在そのものに興味を持っています。私自身は、宗教に入っている感覚のない「ありがち日本人」だと認識しています。自分とはあまり接点のない分野だからこそ興味を持ってしまうのかもしれません。(好奇心爆発しますよね。)

宗教に関する本を読んだりネットで調べたりするのが好きです。

 

宗教の面白さはずばり、「人間らしさが顕著に表れていること」にあると思っています。人はどうして宗教にハマるのかを考えると人間の本質が見えてくる気がします。人間の心理状況が目に見える形で現れていて、とても説明しやすいと感じます。

また、私の中で文化的なものだけでなくカリスマの考えを崇拝する行為も宗教の一部と捉えています。ある意味、信じる信じないということは日常に溢れているのでそういったタイプの宗教を感じる機会は多いです。私は、割と「あ、これ宗教だ。」と思ってしまう思考回路が形成しているようです笑

 

 

では早速、私が宗教について考察した事柄を記していきます。

(私は専門家でもなんでもないので、素人の持論として軽くお読みください。)

 

 

教祖について

宗教には多くの場合、人間最上位とされる教祖が存在しています。

私は、教祖が生まれるという現象が不思議で不思議でたまりませんでした。

私の持論では、努力家の成功者も教祖的資質を持っていると思います。

まず、生まれながらにしてカリスマ性を持っている人はいないと私は思います。カリスマ性というのは多くの要素を含んでいます。人を惹きつける話し方と見た目、威厳のある振る舞い、的確な支持力、人を操るための心理学的知識などなど。これらは後天的に身につくものが多いです。

 

よくサイコパスの人はカリスマ性があってCEOに多いと言われています。(ここでは、サイコパスのCEOは努力家の成功者のカテゴリにはしていません。)しかし、私的には教祖とCEOのパーソナリティは違うと思います。サイコパスの場合、合理的な選択ができるイメージ。感情に左右されることなく、スピーディに決断し行動できます。つまり、リスクを恐れずに見込みがあることに飛びつくのです。

 

一方、宗教は一つの独自の考え方を推しているケースが多いです。例えば、厳しい規律。厳しい規律を設けることで、信者は仲間同士の結びつきを深めたり、よりその宗教に強く惹きつけられるようになります。この規律は、それ自体は合理的なものではありません。むしろ、肉体的に精神的に苦痛を伴うものも多いかもしれません。しかし、教祖と信者の関係を構築するには有効な手段だと言えます。もちろん人の心理を理解し操ることのできるサイコパスの場合、なろうと思えば教祖になり得ると思います。

 

しかし、教祖は自身も本当にその宗教を信じているケースが多いように感じます。なぜなら、「これは、こうだ!」と信者にとっての絶対的な答えを教え導かなければいけないからです。これには、威厳が必要です。愛想の良い笑顔は必要ありません。サイコパスの一つの特徴として、表面的には感じが良いという特徴があります。これは、自分の好感度をあげたほうが他人を操りやすいということを経験的にわかっているからだと思います。ここに、教祖のパーソナリティとサイコパスの特徴に大きな隔たりがあります。

 

また、もう一つの違いとして「信用」があげられます。宗教は、教祖に対して信者は「絶対的な信用」を持っています。不安要因ができた瞬間にその関係は崩壊します。さて、会社において従業員は創業社長に対して「絶対的な信用」を持っているでしょうか。成功する企業は多くの場合、社長の右腕になるような相方がいます。この相方が、社長のカリスマ性を信じその他の対人関係や発生した問題などのいわば尻拭いをします。そうしなければ、多くの従業員は社長についていきません。大多数の人は安定を求めるため、クリエイティブな決定をする社長に対して反発します。

 

つまり社長の右腕になる相方が、社長の選択を噛み砕き妥当性を従業員等に分からせているのです。(社長の考えは好きだけど、人間性がなあと思う従業員も多いのではないでしょうか。)そして、会社として結束を保っているものです。これが、うまく行かないと社内分離が起こります。割と、会社(特に小さい会社)は脆弱なものだと思います。長々と書いてしまいましたが、以上の理由から教祖とサイコパスの特徴は合致しないと私は考えました。

 

次に、教祖のバックグラウンドとパーソナリティについて分析したことを書きたいと思います。まず、先ほども書いたように努力家の成功者と教祖は似たパーソナリティを持つのではないかと思います。そして、努力をする理由は自分に強烈なコンプレックスを抱えていることにあると思います。例えば、いじめられたことがある・貧乏だった・身体的に問題があった・学歴が低い・モテないなどが挙げられます。その自分を認められないため、自分を帰るために多大な努力を自分に課すのです。どうしたら、人に自分の言動を理解させることができるのかなど熱心に勉強したり試行錯誤したりします。そして、その並々ならぬ努力により一般人から見るとその人は人間離れした存在に見えるようになります。

 

ここで、教祖に必要なカリスマ性が発現します。人は、一見してカリスマ性を見極めることができます。ここで、教祖がやらなければいけないことは自分のコンプレックスを絶対見せないことです。努力する過程は時と場合によって見せることはあると思いますが、コンプレックスは見せてはいけないのです。なぜなら、「目的(コンプレックスを凌駕したい)→行動」のプロセスはとても人間らしい言動だからです。教祖は人間離れしなければ、信者と対等な立場になってしまいます。それでは、宗教の構造が狂ってしまいます。

 

つまり、教祖はコンプレックスを見せず途方も無い努力を行う必要があるのです。

また、対信者に対しての言動は「威厳を持って言い切る」スタイルだと思います。優柔不断な言動や曖昧な表現をした瞬間、信者は不安になってしまいます。だから、自分の意見は絶対であると自分自身が信じていて言い切る必要があります。だから、自分の意見を強く断言するのです。断言するのが苦手な人は、断言する練習やプレゼンの練習を死ぬ気でするのです。

 

今思い出したのですが、大学生の頃「完全教祖マニュアル」(ちくま新書)という本を読みました。(少し、話が脱線します。)

たしか、そこに教祖になるために必要な具体的なことが書いてあるはずです。私はバックグラウンドやパーソナリティから教祖特性がある人について言及してますが、この本は後天的に(物理的に)教祖になる方法が知れます。(再確認してないので曖昧ですが。) 気になる方はチェックしてみてください。(面白かったと思います。)

 

話を戻します。普段は威厳があり神がかっているように見える教祖ですが、常にこのような振る舞いをしているわけではありません。これも、前にオ○ム真理教の信者について書かれた本を読んだことから推測しますが、時に信者に対して優しい言動をするそうです。つまり、普段皆の前では威厳ありまくりな言動をしてくれるのに、1:1の時などは一時的に優しく接するというのです。ここで私の思考センサーが反応します。「依存」を生み出すメカニズムと同じではないか!(この私、「依存」についての話(特にゲームや食べ物)も大好きなのです笑。)たしか、「インターネット・ゲーム依存症ネトゲからスマホまで」(新潮新書)に詳しいメカニズムが載っていたと思います。(これも大学生の時に読みましたが、この本はまじでオススメ!)

 

一時的な優しさにより、強烈なインパクトを人の心に残すことができます。そして、普段は「あの優しさが欲しい」と無限に求めるようになります。このように求めている時にドーパミン(幸福ホルモン)が出るそうです。私が衝撃を受けた事実は、好きという感情よりも欲しいという感情の方が多くのドーパミンが出るということです。(買い物依存の核心が見える気がしますね♫)

そして、信者は教祖に依存し宗教の仕組みが構築します。

 

信者について

まずは、信者のパーソナリティから書こうと思います。主に挙げられるのは、以下の3点かと思います。

 

・現状、社会や生活に対して何かしらの不満を感じている人

・根が優しい人

・優等生タイプな人

 

一つ目の特徴について。

現状に満足しているのであれば、新しいことを始めようとは思いません。宗教に興味を持つ時点である種、刺激を求めているのかもしれません。逆に考えると、自分の力だけでは現状を変えることができないから宗教に頼るのだと思います。

 

そして、二つ目の特徴の「根が優しい」について世の中は理不尽なことだらけなのは動かぬ事実です。しかし、根が優しいつまり正義感が強い人はこの状況に疑問や不満を持ちやすいのです。だから、その心の隙を突くのです。自分を認めてくれない社会を否定し、自分を無条件に認め愛してくれる所属を肯定するのは簡単だと思います。この所属は、入信してきた人を手厚くもてなします。そして、それ以外の縁を徐々に切らせれていきます。(カルト系宗教は家族の縁まで切らせますよね。)

 

三つ目の特徴の「優等生タイプ」について。

一般的に宗教そのものに対して非合理的と思う方も多いですが、信者はその団体のあり方について合理的に感じていると思います。宗教の多くの場合、「階級」が存在しています。つまり、信仰の度合いで信者を評価するシステムがあります。これは、会社の体系と似ているようで違うと思います。なぜなら、宗教の方は「努力が報われる」からです。ご存知の通り、社会は「結果を出せなければ評価されない」です。宗教の場合、信仰を態度で表しさえすれば着実に階級が上がります。そして、この階級こそが唯一の価値基準になります。そのため、信者はその道さえ見ておけば安心して生きることができるのです。自分が努力した分がそのまま結果になってくる世界は、とても優しい世界ですよね。この優しい世界は高校までの勉強に相通じると思います。特に暗記科目などは、やればやっただけ点数に繋がります。テストの点数を上げることに心地よさを感じるのは、自分の努力に対して結果が着実について来るからだと思います。つまり、優等生タイプは宗教の世界に適応しやすいと思います。(もはや受験勉強というもの自体、宗教感ある。)

 

宗教の根源を自分なりに解釈

昔から宗教は存在していて、文化に根付いてきたものと言えます。

 

例えば、農耕民族について。祭りや奉納の儀式を通じて、人々は厄が来ないように祈ったり豊作だったことを感謝したりしていました。(通説として。)

つまり、自分では理解や把握しようのないこと(災害など)を超越したもの(神)に委託しているのです。この超越した存在は非常に便利で自分(人間)の都合の良いように解釈できるのです。つまり、このシステムは「人が絶対的に満足するもの」なのです。(人が生み出したものと言えるので当たり前っちゃ当たり前ですね。)

 

祈りと感謝のループにより、自ら作り出した神が本当にいるかのように信じ始めます。(いるかもしれませんが、話が逸れるのでここではいないと仮定します。)

 ご都合で考えた存在であるにも関わらず、まるで芯を突くような存在が自然発生的に生まれたと錯覚し信仰を深めます。これは、何世代にも渡り強まっていくものなので生活に根付きます。生活に根付くことで、その所属の仲間意識や選民思想なども相まって宗教が確立していくのだと思います。

 

特筆すべき心理効果3つ

・返報性の法則

・一貫性

・選民思想

 

一つ目、「返報性の法則」について。よく言われるのが、宗教は入り口が広いです。だから、初めはヨガ教室などの趣味サークルだと思っていたら実は宗教団体だったという事例は後を絶ちません。そして、初めは手厚くもてなします。習い事の無料体験ができたり、お菓子やご飯を振舞われたりなどします。また、物理的なものだけではなく信者は新規の方に対して、全てを包み込むような笑顔や異常なほどの心遣いを与え続けます。それを受け取った新人は、無意識的に自分も何か返さなければと思い行動を起こします。ここで、相互に与え合う関係性が生まれ、そして良い言い方をすれば「優しさの連鎖」が勃発します。

 

そして、二つ目の「一貫性」について。人は、「YES」を言い続けると「NO」と言いにくくなるという心理を持っているそうです。入信前の例で説明します。

「ヨガ教室無料体験してみませんか?」→「YES」

「美味しいお菓子いりますか?」→「YES」

「美味しいご飯食べていきませんか?」→「YES」

「また、集まりませんか?」→「YES」

こんな具合で、次の約束を取り付けることができます。

このように、特に強い反発心や警戒心を持っていなければずるずると沼にはまっていく可能性が高いのです。(心理学面白いなぁ)

 

次に、三つ目の「選民思想」について。

人間誰しも、自我があるので「自分は特別」と思っています。(私もあなたも)

これを「スポットライト効果」というらしいです。自分にかかる出来事が大きく見えて、どう頑張っても完全には自分を客観的に捉えることはできません。

ここで、それを他者などの外部から増幅させるとどうでしょう。人は、自分は特別なんだという思いを強め気分がよくなります。(マズローさんの欲求のうち承認欲求が満たされる。)そして、自分一人だと主張できなくても複数人だと主張や行動が一段と強まります。よりスポットライト効果が増強され、「自分(自分たち)は特別」という概念から抜け出しにくくなります。そして、それ以外の人にその概念を認めさせようと行動し始めます。なぜなら、自分が特別扱いされるのが当たり前で、「特別扱いされていないことが不当」という歪んだ思想が根付くからです。

 

 

最後に

上記のようにいろいろ書いてきましたが、やはり宗教について考えるのはとても面白いですね。人の心理に働きかけるような仕組みが宗教には存在していて、一見繋がりがなさそうな日常生活でも宗教的体系が宿っていたりします。

私は、日常的な宗教を見つけるのが得意です。(はい、死ぬほど役に立たない特技多すぎ笑)

しかし、「信じるものは救われる」というのはあながち間違っていないと私は思います。だから、斜に構えて生きすぎないというのを肝に命じて生きたいですね。

 

あと、ここに書いたのはあくまでも本好きな素人によるなんの科学的根拠のない宗教論です。

参考にしないでくださいね笑

 

「はぁ〜、こんなこと考えている暇な人もいるんだな〜」くらいに思ってください!

 最後に私の宗教についてのメモの一部を公開します。我ながら、自分の精神を心配してしまいます笑

そして、解読できないので理解できた方はご一報ください?!

(たぶん、哲学してたのだと思います笑)

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メモ1

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メモ2

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メモ3

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メモ4

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メモ5




では、また〜