まみずハルカブログ

私の日常もあなたの非日常。とにかく雑多に書いてます。

2019アウトプットまとめ②

 

 

隠れオタクの多さ

 

本当はオタクなのに、恥ずかしいから周りに隠してる人をよく見つけます。

普段はオタクの気を一切見せないのですが、ふとした瞬間にオタクの片鱗が見えるのです。

このように、隠れオタクが増殖していると思います。

 

オタクを隠す理由として、イメージの悪さが挙げられると思います。

「オタク」「腐女子」という言葉は、確かに清潔感ないですよね。

腐女子なのがバレたら引かれるかもと思ったり、

オタクではない人が遠ざかってしまうのではないかという不安があるのでしょうか。

 

オタクというのは自分の趣味に没頭する人のことを指します。

そのため、自分の世界に入って周りが見えなくなる人が多いはずです。

あくまで、多いだけでこのプロトタイプに当てはまらない人もたくさんいると思います。

そして、このあてはまらない人が

自分は周りの見えないコミュ障と思われたくない!」という考えから、自分がオタクであることを隠すのです。

 

私は、何人か隠れオタクを見てきましたがオタクに見えない人が多かったです。

隠れオタクの方は自分のキャラをわきまえて、空気を読んでいるのかもしれませんね。

 

または、嫌いなオタクがいてその人の仲間になりたくないから隠しているのかもしれません。

自分の興味のある話題だけについて、マシンガントークをするようなオタクと距離を置きたくなるのも分からなくはないです。

 

このような隠れオタクの人たちが全員カミングアウトしたらオタクは多数派になると私は思っています。

一つの趣味に没頭している時点で、ある意味オタクなのかもしれません。

しかし、やはりオタク=アニメ・漫画という印象がありますね。

とは言っても、一つや二つくらい特定のアニメや漫画に熱狂したことのある人は多いのではないでしょうか。

だから、自分がオタクではないと思っていても案外オタクだったりするのです。

 

そして、自分の隠したい趣味をも人に共有するとオタク同士が固い絆で結ばれるのではないでしょうか。

(オタクの種類も無数にありますがカテゴリが同じだったり、名前は聞いたことがあるなどと話が盛り上がると思います。)

 

私は漫画やアニメを見ないので、圧倒的に少数派になる気がします。

私がオタクを羨ましく思うときは、外国人と話す時です。 

 

日本に興味のある外国人は、アニメや漫画が好きな方が極めて多いです。

(NARUTO、ブリーチが好きという人が特に多い気がします。)

 

アニメや漫画の話で外国人と仲良くなれる(盛り上がれる)って凄くないですか。

アニメや漫画が共通言語と化していることだからです。

 

私もオタクになれれば良かったと切実に思っています。

(オタクは不滅。)

 

私は1つのことを追求するより、沢山のことを浅くやる性格なので本質的にオタクにはなれないです。残念。

 

大人のアレルギーについて

 

近年、大人になってからアレルギーを発症する人が増えているようです。

原因は、同じ食材を食べ続けること過度なストレス

そして、アレルギーが発症するのも人それぞれらしいです。

 

どうして、アレルギーについて調べるようになったかというと

私も超軽度のアレルギーになっているのではないかと疑っているからです。

 

私の場合、あからさまに赤い斑点ができたり特定の食べ物への拒否反応があったりするわけではありません。

多少の肌荒れ」と「多少の皮膚の痒み」程度です。

アレルギー検査を受けたわけではないので、はっきりとした原因はわかりません。

アレルギー検査とはアレルギーの有無を測るものです。

アレルギー反応値が高いとアレルギーといえます。

また、アレルギーと判断できる値まで達していなかったとしても

自分がアレルギーになりやすい食品をすることができます。

私は、まだその測定をやってません。

(切羽詰まってないからです)

 

しかし、自分の中で小麦に弱いのではないかと踏んでいます。

弱くなる原因は、小麦の食べすぎです。

アレルギーの厄介なところは、料理が違っても同じ食品を摂取しすぎる

アレルギー反応を起こしてしまう可能性があることです。

小麦であれば、麺類・パン・お菓子に含まれています。

つまり、朝食がサンドウィッチ・昼食がうどん・夕食がパスタ・間食にお菓子

という食事をしてしまうと一日中小麦を摂取することになってしまいます。

すると、小麦過多になってしまいます。

 

どうして小麦アレルギーになる日本人が多いのか謎です。

日本の主食は米ですが、食生活は欧米化してきました。

つまり、小麦食は日本人にとって重要なものになったといえます。

だから、多量の小麦を摂取することでアレルギーになるということなのでしょうか。

小麦を主食にしている欧米の方は、小麦アレルギーになりにくいのでしょうか。

日本のアレルギー項目に米がないのも不思議ですね。

 

話を戻します。

私は、健康食を日々心掛けています。

しかし、

同じような料理を作ってしまうこと小麦を使った食事が多かったことはやってしまいがちでした。

野菜をたくさん摂っていても、野菜ごとに偏りが生じてしまいます。

(大根はあまり食べないなど)

また、パンや麺は手軽に食事を摂ることができます。一人暮らしの私としては頼ってしまいがちでした。

そして、私の中で小麦粉はいくら食べても大丈夫なものと認識していました。しかし、どんな食品でも食べ過ぎはよくないですね。量の問題ではなく、摂取のスパンの問題です。

 

ということで、私はしばらくの間グルテンフリーの食事にしてみようかなと思います。

正直、小麦を徹底的に禁止する必要は私はないと思います。

「小麦食は一日一回までにする」くらいでよいと思います。

しかし、もともとグルテンフリーの生活に興味があったので実践しようと思います。

グルテンを控えるだけで体調がよくなるという話を聞いたことがあったからです。

実際に試してみないと、効果がわからないのでグルテンフリーをやろうと決めました。

 

床に落ちた物を食べる人について

 

私は、昔から親に床(外)に落ちたものは汚いから絶対拾って食べたらダメ!と教育されてきたのでどんなことがあっても拾って食べることはありませんでした。

 

しかし小さい頃、友達が「3秒ルール」の名の下でセーフだと言って、息を吹きかけてから食べていました。それに対して、引いた覚えがあります笑

 

地面というのは、見るからに土があって汚れている所もあれば

掃除がなされていて綺麗に見える所がありますね。

 

しかし、綺麗に見えるところでも大きいゴミ(埃など)は落ちていなくても結局、菌はいるのです大人は菌の汚さ・怖さを知っていますが、小さい子はよく理解していません。

 

 だから、目で見たそのままの様子(埃がついていない様子)を

信じて、食べてしまうのかもしれません。

 

私が目撃したその子は、特にお腹が痛くなることもなく弊害は起こらなかったようです。

 

 

もう一つ、似た例を挙げましょう。

 

積もった雪を食べる人についてです。雪は空気中の塵や埃を吸着して落ちてきます。

そのため綺麗な真っ白さに反して、汚いです。

(山奥の雪ならまだしも、都会の雪は汚い...)

 

小学校の頃、ある友人は降り積もった雪を丸めて口に入れていました。

「積もったばかりだから綺麗」だと言っていました。

(冷たくて、美味しいそうです...)

 

なんと、その子は次の日に学校を欠席したのです。

 

雪を食べたのが理由か分かりませんが、当時の私はこの関係性をクロと見ていました。

(今でもこの出来事を覚えているくらいなので相当、心に刻まれたのだと思います)

 

小さい子供は、知識が少ない分、知らず知らずのうちに危険にさらされていますね。

(親が予想もしないことをやっている事も多いのかもしれません)

 

みなさんは小さい頃、親に「床に落ちたものは絶対食べてはいけない」と

教えられてきましたか。

「三つ子の魂百まで」なので、私は床に落ちたものを食べるのは拒否感があります。

 

( 床に落ちたものではないが、学校の帰り道花の蜜は吸ったな...)

 

ノンフィクションが好きすぎる

 

今まで数多くの動画や映画やテレビを見てきました。

私は”生粋のテレビっ子”から”ユーチューブ中毒者”になり、

さらには”アマゾンビデオヘビー視聴者”に転身していきました。

このように、沢山の映像を見てきた結果、ンフィクションに行き着きました

 

それこそ

"ザ・ノンフィクション"というテレビ番組は凄い好きなんですよね。

自分とは全く違う人生を生きている人を見ると、その人自身を追体験している感覚になれます。

自分はできないことを当たり前のようにしているのです。

興味が湧いて当然ですよね。

 

ほかには、リアルな反応もノンフィクションと言えるでしょう。

M-1グランプリで見せる芸人の反応は私の大好物です。

決勝に初めて上がって喜び泣き崩れている姿は感動します。

本編のネタより好きだったりします。その部分だけ何回も見直します笑

(特に、2017年のキングオブコントのGAGの姿が好きです...)

 

また、Amazonオリジナルビデオは過激な番組が多く芸人のリアルな表情を見ることができます。

(たまに不快な映像がありますか面白い映像も沢山あるのでほぼほぼ見ました笑)

"有吉のぬるま湯大作戦"の「次何来るんだよー」と不安げな表情

"ドキュメンタル"の赤い封筒を開けた時の

「来たかー!」と嬉しさと戸惑いが混在した表情。

確実に、本編より面白いと思います。

 

芸人だけでなく、リアルに恋をしていく人を見るのも楽しいです。

AbemaTVの恋愛リアリティショーやAmazonの"バチェラー"などです。

 上手く行動できなくて泣いる人。

気持ちが相手に伝わってはしゃいでいる様子。

テレビで本当の感情を出すのはとてもレア感があると思います。

(私には、できないなと思ってしまいます。)

 

また、最近では海外の刑務所体験をする番組にはまっています。

一般人が一時的に刑務所へ行くというものですが、海外の刑務所の劣悪さがわかります。

日本は何でも清潔で安全な場所が多いですが、外国は果てしないものがありますよね。

海外の番組は日本のものより、粗いため面白いです。下品な言葉を使っていますが、それもまたリアルなのです。自分ができないからこそ、惹かれるものがあるのだと思います。

 

 

このように、人のリアルさが私の中で一番面白いなと思っています。

精巧な演技など感動することはありますが、

やはり心に響くのはリアルな人の感情や人生なのかなと思います。

 

違法タクシーを目撃した話

 

先日、違法タクシーを目撃したのでそれについて書きたいと思います。

あくまで、目撃しただけで被害を受けてはいません。 ご安心を。

 

地図を広げて、立ち止まっている旅行者がいました。すると、一台の乗用車が目の前に止まりました。窓を開けて、声をかけました。

どこに行くと?

見た目は地元のおじさんという感じでした。道に迷った旅行者に向けて親切心で声をかけているように見えました。(私は近くで見ていました。)

旅行者が行き先を伝えると、そのドライバーはその場所まで送ってくれると言いました。

しかし、その旅行者は見ず知らずの人の車に乗るを躊躇しているようでした。

そして、運転手は旅行者を説得し始めます

さらには、「目的地よりもオススメの場所があるから車で巡ってあげる」と言い出しました。

説得を続けて数分後、

「料金はいらないけど、ガソリン代は払ってね。ガソリン代だけでいいから。料金取っちゃったら、違法になるからね。」と笑顔で言っていました。

結局、旅行者はやんわりと断りその車には乗りませんでした。

 

 

ここで、最大の違和感は「ガソリン代を払う」ということだと思います。

ガソリン代を払う=タクシー業務と言っていいでしょう。ガソリン代と料金に差があるとは思えません。

なんなら、そのおじさんがガソリンの計算(走行距離÷1Lあたりのガソリン代)を綿密にするとは思えませんでした。乗ってしまった後に、高い金額を提示される可能性もあります。

 

私は、あるテレビ番組で違法タクシーを逮捕するというものを見たことがあります。

そこに出ている人は、夜中に酔っ払ったサラリーマンをターゲットに営業をするという手口だったと思います。

警察の目を盗むために夜の時間を選ぶという軽い知能犯とも言えますね。

しかし私が目撃したのは昼間であり、かつ運転手は地元の気さくなおじさんという雰囲気でした。

これにより、私の違法タクシーへのイメージが覆されました

違法タクシーは悪そうな人がやっていて引っかかる人はいないだろうと思っていました。しかし、昼間の気さくなおじさんであれば、危機管理の弱い人は利用するかもしれません。

 

また、違法タクシーのおじさんも「ガソリン代だけだったら違法にならない」と本気で信じているようでした。

知らず知らずのうちに、法に触れることもあるのだなとも思いました。怖いですね。

(私が警察に通報したら、一発だよな。)

 

街の世話好きのおじさんが、世話を焼いたために逮捕されるケースがあってもおかしくない気がします。「ガソリン代だけ」という小さな欲が大きな罪に問われる可能性があありますね。

 

ここまで、「違法タクシーに乗らないように!」

というより「違法タクシーにならないように!」 と忠告している気がしてならないです。笑

 

共感覚は暗記だけ!

 

私は基本的にカラフルな色が大好きで

洋服や持ち物などでもビビッドなカラーを取り入れることが多いです。

私物はカラフルな色を入れることが多いですが、文字は黒を使うことがほとんどです。

高校の頃のノートを見返すと、殴り書きのシャーペンの文字しかないくらいです。

 

という話はおいといて、今日は文字の持つイメージ色について考察していきます。

 

最初に言っておきますが、私は残念ながら共感覚の持ち主ではないです。

(共感覚の人は暗記が得意なようで羨ましいですね)

 

しかし、共感覚を持っていない私でも

文字に色を当てはめるならこの色!」と思うことがよくあります。

 

例えば、まみずハルカだと

まみずハルカ

と文字を当てはめることができます。

 

まみずは水の色

ハルカは春の色が合っています。

 

1文字ずつ分けるのは難しいですがやってみます↓

 

全然違う色になりました笑

前者の方が見やすいですね。

 

文字ごとにバラバラの色だと意味が理解しにくいと思います。

だから、単語ごとに色で分けられる共感覚にはなってみたいなと思います。

 

ここまで書いてきて

一回全部色を使って文章を書きたくなってきました笑

ちょっとやって見ます

 

 

いからからられないよ〜」

「そうだね、くなったよね」

はもうだね」

なんてにしてるじゃないよね」

 

色の種類に限界があったので、こんな感じになりました。

(ひらがなは諦めました...)

 

このようにブログを書いていたら情報量が多くて読みにくいですね。

内容よりも色の情報が先行して、読む気が失せるはずです笑

一方、共感覚の方は(リアルでは出会ったことがない)「暗記に便利!」と考えているそうです。

 

情報のベクトルが一つ増えることで覚えやすくなるのは確かだと思います。

(感覚が一つ増えることになるのは、一種の能力だよね)

 

しかし、全てを色付きの文字にすると疲れてしまうと思います。

 

ということでこれからも基本的には黒字で書きますよ。

 

車酔いの原因は揺れではない?

 

 突然ですが、私は車に酔いやすい人種です。

 酔い止めを飲むほどではないですが、昔から車に乗るたびに酔っていました。

 

おそらく原因は車の匂いだと思います。

 車の揺れによって車酔いを起こすことが一般的なようですが

私の酔いの原因ではないと思います。

 

なぜなら、他の揺れる乗り物(電車、バス、飛行機)では平気だからです。

 

車は空間が狭い分、空気がこもりやすいですね。

 まさに車の中に入った瞬間、酸素濃度を気にしてしまいます笑

 

窓を開けっ放しにして新鮮な空気を取り入れると車酔いは冷めます。

 

逆に車が止まっている時に前のトラックからの排気ガスの匂いが漂ってくると

吐きそうになります。困った話です。

 

よく考えるとこれは車酔いではないのかもしれませんね。

 私が、ただただ匂いに敏感な人なのかもしれません。

臭い匂いで体調が悪くなる体質なのかもしれません。

 

特に、ガソリンの匂いが苦手です。

親がガソリンスタンドで止まってガソリンを入れる時、いつも車から離れていました。

 

ガソリンの匂い=吸ってはいけないものと脳が察知していたのでしょう。

少しでも吸ったら吐きそうになるのです。

 

一方で昔、ガソリンの匂いと油性ペンの匂いが好きな友人がいました。

 その子は幼少の時からこれらの匂いが好きだったそうです。

しかし、健康に悪そうということで積極的に嗅ぐことは止めたらしいです。

 

いろんな人がいますね

どういう経緯でガソリンの匂いが好きになるのか気になります。

良い記憶と結びついているのでしょうか。

 

とにかくこれからもガソリンの匂いを好きになることはなさそうだし

耐性をつけるのも難しそうなので

排気ガスの出ないハイブリットカーがもっと普及するのを願うばかりです!

(電気で走ったり、水を出すだけだったり!)

 

大人数が嫌いな原因は?

 

私は大人数で宴会、ワーク、遊ぶというのがあまり好きではないです。

この理由を今までは、「コミュ障乙ww」と思っていたのですが

どうやら違うみたいなのです!

 

少人数だとたくさん話せるし、楽しいと感じるため

ひとまとめに「コミュ力がない」と結論付けるのは違うなと考えました。

(少人数なら初めてあった人でも、ワイワイと話すことができます)

 

ズバリ

大人数が嫌いな理由は...我が強いだから!

 

 

2〜3人だと、頑張れば自分の思うようにコントロールすることができます。

 

一人当たりの裁量が大きい分、自分の意見を反映させやすくなるからです。

(全部自分の意見を押し通すのは嫌われるから、しないけどね)

 

しかし、大人数だとそうはいきません。

互いに意見を出し合って、全員が妥協しなければなりません。

 

そして、ある人が私と違う意見を言ったとするとそれに乗っかる人が想像以上にたくさんいるのです。(女子に多い「だよねー☆」「わかる☆」「それな☆」etc.)

 

そのため、平和を愛す?私は反論せず、その意見は不可抗力なものになってしまうのです。

(反論するのはエネルギーを使うので、ささいなことで反論したくない)

 

これにより小さなもやもやが蓄積され結果的に、「大人数嫌い」となってしまうのです。

 

この理由を「我が強い」と書きましたが語弊があるかもしれません正しく言うと「心の中の我が強い」だと思います。

 

本当に我の強い人は、どこにいても自分の意見を通そうと頑張りますよね。

 

私の場合、「大人数の時、諦めなければいけない→不本意、不満」と感じているのです。

 

大人数で集まる時に人がわちゃわちゃしていて嫌だ!という人もいると思いますが

私のようなタイプもいるのではないかなと感じました〜

 

AIが人類を滅亡させる仮説について

 

世界で最初に地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスを尊敬してこれから世界がどうなっていくか仮説を展開しようと思います!

 

AIが世界を征服して人類を滅亡させる!のは近い話だと思います。

 

なぜなら、AIの頭脳は人間より桁違いに賢いためAIはより便利に、より合理的に物事を進めようと考え、動くはずです。

 

つまり、全く合理的ではなくアホな人間はいなくなった方が

物事を合理的に進めることができるとAIが考えるのは、当然のことだと思います。

 

AIはディープランニングという自分で学習するシステムであるため、

もはや人間が外的に操作しなくても勝手に高スピードで考える超生物?なのです!

 

この先、多くの場所でAIを使ったロボットAIを併したIoTのシステムが普及していくでしょう。AIが考え、人間が快適になるように機械やシステムが動作するようになるでしょう。

 

しかしそこでは、確実に問題が起こります。

AIロボットは「やれと言ったことをやる機械」ではないので正直何をしで出すかわかりません。

(人間が予期しないこともやるかもしれない)

 

普通の人がAIロボットを使用する場合は大丈夫だとしてもヤヴァイ人間(サイコパス)が変な教育をAIにしてしまうと収拾のつかないことになりかねません。

 

また、AI自体が人間を滅ぼそうと思わなかったとしても

機械は誤作動が生じるものでそれこそ、医療の現場で自動医師みたいなロボットが

ミスすると生死にかかってきますね。

(セキュリティが破壊すると人為的ミスになる...)

 

このように、AIが人間を滅ぼすという都市伝説じみたことは起きるなと思います。

 

しかし、未来の危機より目先の便利さですね。

(私もそうです。それはしょうがない。)

 

将来、北極の氷がとけて白熊が減っちゃうからエコにしよう!とか思いませんもんね。

(実感がないから)

それで良いと思います。

 

人間が滅びるということは生物の歴史を考えるとごく当たり前のことです。

ほとんどの生物は数千万年で絶滅するでしょう。人間も例外ではないと思います。

 

人間は生物である限り、いつかは絶滅してしまいます。(これはしょうがない)

 

今を、楽しく生きれば良いのです。私が生きている間にAIが恐ろしい事態を招かないことを祈るばかりです。(どこの宗教の教祖だよ笑)

 

壇蜜の本=ホリエモンのポエム

 

「人となり」をある程度知っている有名人が本を出版することが多いですよね。

 

この前は、壇蜜の本を見ました。本の帯を読んだくらいですが壇蜜らしいミステリアスな文章が書かれていました。

 

冷静に考えると私にはあまり響かない言葉でしたが壇蜜がこの言葉を書いたというバックグラウンドを頭に置くとつい読みたくなります。

 

芸能人ではない作家が本を出版する場合、その人のバックグラウンドなしで勝負しなければなりません。知名度のあるなしの話ではなく、

こんなをした人

こんな雰囲気のもった人

こんな立ち回りをする人

というのはテレビを見たら、ある程度想像することができますね。

 このようなバックグラウンドがないということです。

 

これが良いのか悪いのかはわかりません。

 

悪い方向に転ぶといくら文章が上手い芸能人でもその人自体を嫌いになると全く文章が頭に入ってこなくなるでしょう。

(批判しようという心持ちで読んでしまう)

 

壇蜜の場合は良い方向に転んでいると思います。あの文章を一般人が書いたとした。

見向きをされるか疑問です。

(壇蜜が書いたあの本は素晴らしいのです)

 

だから、私が書いているこのブログやもう一つのポエムブログも私のバックグラウンドや素性をいかに文章で表すかが試されるなと考えました。

(有名人は文章以外の情報も与えられる)

 

不毛なことを言うようですが、ホリエモンがあのようなポエムを書いたとしたら多くの人が深読みしてくれるのではないかと思います笑

 

人となりがわからないという情報不足の状態でいかに人に伝わる文章を書くのかをまた試行錯誤していきたいです。

 

「誰が書いたか」よりも「何を書いたか」の方が大事な気がしますが。

「誰が書いたか」というのも人に多大な影響を与えているなと思いました。

 


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2019アウトプットまとめ①

しばらくの間、下書きに保存していた文章ですが削除するのもあれなのでまとめて一つの記事にしました!是非、読んで見てください。

 

 

人を見て回答を変えるという技法

 

マルチポテンシャライトの本の中に「マルチ・ポテンシャライトは職業を聞かれた時、

人に応じて答えてを変えても良い」という趣旨のことが書かれていました。

 

これを読んだ時、はっとしました

なぜなら、人によって回答を使い分けるという技は私はよく使うからです。

つまり、聞き手の性質によって自分の回答を変化させるのです。

残念ながら、最近はめっきり「将来の夢」を聞かれることが減りました。

 

しかし、自分の好みのものについてはよく聞かれますよね。

自分が何が好きなのか、または嫌いなのか固定できるものではありません。

好みが変動的であるからこそ、質問者によって回答を自由自在に操れることができるのです。

 

例えば、「好きなアーティストは誰?」と聞かれたとしましょう。

この問いに対し、基本的に私は「ポルノグラフィティ」と答えます。

これを言うことで、「私も〜!」とか「サウダージ好き!」と会話が弾むことが多いからです。ポルノグラフィティはテレビに出るようなメジャーなアーティストです。

そのため、「知らない」という人は極端に少ないためその後の話に続きやすいのです。

 

一方、仮に相手が「モーニング娘。好き!」と言ったとしましょう。

私は迷いなく、「私も!!」と答えるはずです。

「モー娘。」は私の一番好きなアーティストというわけではないものの「好き」ということは間違いないからです。

 

また、相手がバンド好きと分かれば、「女王蜂」と言うこともあります。

バンドに詳しくない人で「女王蜂」を知らない人は多くいます。すると、これを相手を選ばず答えることで「知らない」と言われるリスクが上がるのです。

 

このように、好きなアーティスト一つ取っても

自分自身の回答を様々なものに変えます

 

ではどうして、「自身の回答を変える」 という行動をするのでしょうか。

理由の一つに、「相手に共感が得たい」「趣味が違うと思われたいくない」という心理が働いているからだと思います。

相手とは全く違う趣味を答えることで、「相手のことに反発している感」がうっすら出てしまいます。

そうすると、その後の会話がお互いに「趣味の違う人」と位置づけて話すことになります。これは、できれば避けたいですね。

 

私は、趣味がころころ変わるタイプなのでどんな人とでも会話を合わすことができると思ってます。たとえ、自分が知らない分野の話をされたとしても興味を持つようにしています。(自分の気になるところを突っ込んで質問すれば自ずと面白くなる。)

 

自分の代名詞となる「好きな唯一なもの」がないのは悲しいです。これが、あると自己顕示しやすいからです。「自分はこれだ!」というものがあれば、「自分は何者だ?」と悩むこともないですからね。しかし、広く浅く様々な分野に飛び込むことは自分の気質なので認めるしかありません。「多様性」を持つことが個性というなんだか矛盾しているような人間だなと感じました。

 

みなさんは誰に対しても唯一の回答を決めていますか。

気になります。

 

どうして人は未熟なものに魅力を感じるのか

 

巷では、「イケメン苦手〜」と豪語する女子や

「前髪くるん小柄女子」好きな男子があふれています。

これは、人間の「未熟なものに対しての親近感」による趣向なのではないかなと思います。

 

多くの人間は「自分自身を未熟なもの」と感じているはずです。

(本来、人間は年をとるほど成長するものです。だから、現時点の自分を「成熟している者」と判断する人は少ないと思います。自分を完璧と思っている人は相当の猛者ですね。)

 

そして、他人を見る時はまず外見で判断します。

容姿が優れている人に対して、「中身も完璧な人」と脳が錯覚するのです。

つまり、自分とは違う世界の人と位置づけるのです。

これにより、敬遠してしまう人が増えてしまうのではないでしょうか。

私の場合、外見で拒否反応を示すことは減ったと思っています。

しかし、やはり未熟なものへの魅力は避けられないなと感じます。

 

例をご紹介しましょう。

私は、とあるアーティストが好きでした。

その情熱的でかつ魂で歌っている感じが良かったからです。

このリアルさが儚さを持ち、「ダサかっこいい」と私は思っていました。

 

しかし、時が経つにつれてそのアーティストは世間から認められるようになりました。それと、並行して本来の情熱的なものが明らかに薄れてしまいました

つまり、歌詞も歌のスタイルも悪い意味で洗練されてしまったのです。

ここで、「洗練」という言葉を使いました。

一般受けする聴きやすい音楽はすべて洗練されている部類に入ります。

メジャーデビューをすると高音質な音楽設備を使うことでしょう。

自ずと、未熟で粗い音楽は生成されなくなります

 

私のように未熟な音楽が好きという人はたくさんいます。

「インディーズバンドの方が良かった」「素人時代の方が良かった」との声をよく聴きます。ジャニーズヲタクであれば、「ジュニア時代の方が良かった」というのかもしれません。ロリコンも未熟さの魅力から来る趣向なのでしょうか。

 

いづれにしても、未熟さは真っ向から「綺麗」と言えないものの、

人に訴えかけるものがあると思います。

未熟さから「人間らしさ」を感じることができ、共感できる部分が多いのです。

綺麗なだけのものは「崇拝すること」しかできません。

(完全降伏ですね)

それは、神と信者のように「対等な関係とは言えない関係」になるのです。

対象が未熟なものであることは、「自分と対等」と捉えることができ

その対象の中に自分を見て、他人とは思えなくなるのではないでしょうか。

 

私の好きなアーティストや女優さんあるいは芸人さんは、

いづれも完璧な人はほとんどいません

しかし私にとって、とても魅力的に映るのです。

 

みなさんの好きなものは、「崇拝型のもの」ですか。

それとも、「未熟なもの」ですか。

 

大人と子供の「退屈」について考える

 

大人になると、時間の流れる速さが早く感じます。

この理由は、子供時代に比べて新しい出来事が減ってくるからだそうです。

私も例外ではなく、時間の経つ速さに恐怖を感じています。

 

私なりに新しい物事を意識的に取り入れて生きているつもりですが、

小学生の頃のように時間の長さを感じることができません。

新しい機会に身を置いている時でさえ、その時間はあっという間に過ぎてしまうのです。

 

この原因は、「退屈さ」を感じる時間が減ったからなのではないかと考えました。

 

では、「退屈さ」を感じるためには何をしたらよいのでしょうか。

ずばり、「何もしない」「でも、寝ない」ことだと思います。

 

子供時代を考えると、ぼーっとしていた時間が長かったのではないかなと思います。

(無意識にしていたことの方が多いと思いますが...)

たとえ、自分がやらなければいけないことがあったとしてもその反応速度(状況を理解して行動に移す時間)は大人と比べて遅いと思います。

つまり、物理的に「退屈な時間」が多かったと思うのです。

 

一方、大人はどうでしょう。

毎日同じような生活を送ることで、頭で考えなくても「自動的に」体を動かすことができるようになります。

 

朝起きたら、疑うことなく目覚ましを止め、迷うことなく顔を洗います。

これは、一見「退屈な時間」に見えます。しかし、違います。

日常習慣なのです。

生きるために必要な事をするのは退屈な時間ではありません。

 

退屈な時間とは、先ほど書いたように「何もしない」「でも、寝ない」状況なのです。

 

私自身、最後に退屈さを感じた時間はバイトの暇な時間です。

お客さんが来ないため、何もすることがない。かといって、サボる抜け道がほとんどない状況でした。

これは、確実に「退屈な時間」と言えます。

(案の定、時間を確認するたびに進みの遅さに萎えていました笑)

 

この退屈な時間と日常習慣に追われた時間の使い方明らかに質が違いますね。

 

子供時代は、親が代わりに日常習慣をやってくれます

一般的に、ごはんを作ってくれ洗濯をしてくれますね。

それを充填するかのように、「退屈な時間」を過ごすことが多くなるはずなのです。

振り返ると、意味もなく夜起きていたりしたなと思います。

この時間こそが、時間の経つ速度を遅らせる一因だと思います。

 

「退屈な時間」は良いも悪いもないと思います。

しかし、大人になってまでバイトの暇さを感じまくるような退屈な時間の使い方をしたくないと私は思ってしまいます。

子供の時の「退屈な時間」は絶対に必要だと思います。

必要と言うよりは、本来なくすことができないものだと思います。

しかし、退屈を埋めるためにひたすらゲームをやり続ける子供がいます。

時間を体感するという大切な期間を失ってしまうことに繋がるので、

ある意味時間が均一化してしまうのでもったいないと感じます

 

しかし、大人には当てはまりません。

大人は、(私が定義したような)退屈な時間を作るべきではありません

社会で生きていくことと、自分の向上心の必要性を感じるはずだからです。

この二つがあれば、自分を退屈な時間に投じることは避けるはずです。

つまり、退屈な時間にばかり身を置いていると生きる希望を失いかねません。

 

結論、大人が時間の経過の早さを感じてしまうのは悪いことではないと思います。

歳をとったからと言って、決して新しい挑戦を止めたわけではないのです。

大人になったにも関わらず、時間の経過の早さを感じない方がおかしいです。

 

 

ここで、ふと文春新書『退屈力』という本を思い出しました。

この本では、「繰り返し」によって型を体に覚え込ませることが退屈力育成に役立つと書かれていたと思います。

私の「退屈」の解釈とは違いますね。

(面白い本だったので、気になる方は読んでみてください)

 

人生の中で一番嫌いになった人って誰だろう

 

ふと「最近、人を嫌いになることが減ったな」と感じました。

「苦手な人だな」と思うことはありますが、

猛烈なほどの嫌悪感を持つことがなくなりました。

これは、「人は人、自分は自分」と考えるようになったからだと思います。

これから先もこの考えは変わらないのかなと思います。

 

となると、、、

「人生の中で最も嫌った人」というのは、

既に私の人生の中に現れているのではないか!ということなんです。

(哲学みたいになってきたぞ。)

 

過去を振り返ると、嫌いになった人のことは容易に思い出せます。

私の場合、一番となると、そうですね・・・

私の場合は、小学6年生の時の担任ですかね。

ここで、その人の愚痴を書くのは的外れなので書きません。

が、恐らく私の人生の中で一番嫌っていたと思います。

 

では、なぜ昔の担任を「一番嫌いな人」認定してしまうのでしょうか。

分析してみましょう。

 

子供は未熟であるので、他人を自分のことのように感じてしまうと思います。

「人は人、自分は自分」というより共感力が優っているのだと思います。

だからその分、他人に対して反発力が出てくるのです。

他人の考えや行動を理解しようと頑張るが、理解できない

そんなフラストレーションが積もって、「嫌い」という感情に変わるのかもしれません。

 

子供から大人になることは、ある意味「人に無関心になる」ということかもしれません。自分には理解できない人が現れたとしたら、さっと目を背けて関わらないようにする。これは、あまりにも寂しい世の中ですね。

 

奇しくも、

人を嫌う感情が盛んだった子供時代の方が他人に関心のある温かい世の中

だったのかもしれません。

 

また、自分の周りにいる人の数も原因と考えられます。

子供の行動パターンは、朝起きて学校に行き家に帰って寝ることだと思います。

中には、習い事に行く人もいます。

しかし、社会人と比べて「出会ってきた人」の数が圧倒的に少ないです。

つまり、それだけ目の前にいる人の重要度が高いのです。

 

大人は伊達に長く生きていないので、出会ってきた人の数は多いです。

つまり、次に会う人というのは過去に出会った人との比較対象になるのは必然です。

そこで無意識に目の前の人をランク付けします。

この「人間サンプル」が多ければ多いほど、

「ずば抜けた感情」を持てるような人に出会うのが難しくなります。

「一番嫌い」「一番好き」と強烈に思えることが減っていくはずなのです。

 

例えば、サンプルが2つしかないとするとその違いは感じやすいです。

サンプルが10個あったとすると、最高のものと最低のものに距離があったとしても

その中間には8つの存在があります。つまり、両者を際立たせにくくするのです。

そして、このサンプルは自分の時代によって明確に分けられます。

小学校時代・中学校時代・高校時代・大学時代・社会人時代

それぞれの時代で分けた時、サンプル数の少ない時代に出会った人間の方が

記憶が鮮明なはずです。

 

結論、「強烈な人」というのは既に出会っている確率が高いということです。

もちろん、例外はあります。

 

また「今現在の事柄」は、なにより一番鮮明なので

今嫌いな人がいる場合はその人が「人生で一番嫌いになった人」と思ってしまいがちです。しかし、数年後時間を置いて振り返った時にそう思えるとは限らないと思います。

 

 

昔の傑作は今も通用するのか問題

 

よく「不朽の名作」と謳われている映画や漫画や本や音楽がありますね。

「私は何度、この誘い文句に騙されたことか!」と思います。

 

昔に傑作と呼ばれていたものや当時興行収入が高かったものが

今現在に通用するはずがないと私は思っています。

 

一つ目の理由として、選択肢の数の違いを挙げます。

日本が戦争を終え経済が回復してきた頃、娯楽も急激に増えたと思います。

しかし、今現代の娯楽の多さに比べたら雀の涙と言えますね。

当時はアイドルの派閥は松田聖子と中森明菜で分かれている時代。

いまや無数のアイドルが量産されていて、AKBグループだけでも相当な数でしょう。

選択肢が少ないからこそ、一つの選択肢あたりの支持人数が増えます。

結果的に、大ヒットやミリオンセラーが生まれるのです。

それは、今の選択肢の多いご時世で生み出すのは並大抵のことではありません。

アイドル一つとっても、顔の可愛いさ・トーク力・歌のうまさ・愛嬌が昭和のアイドルよりも

はるかに実力の高いアイドルはたくさんいると確信しています。

もちろん、時代によって好まれるアイドル像というのは変わるはずなので

当時人気だったアイドルを否定する気は全くありません。

(その時代に生きていない私が語る資格はありません)

しかし、時代を超えて昭和のアイドルを神聖化するのは違うなと思います。

競争相手が少ないと上位層になりやすいのは必然だと思います。

(オリンピックの競技である射撃の日本選手になりやすいように...)

競争率が高いと全体のレベルがあがるでしょう。

逆も然りだと思うのです。

 

二つ目の理由として

時間経過による「スキルアップ」が挙げられます。

当時、斬新なストーリーの本が出たとしましょう。

その本は一気に日本中に広がり、皆がその本を知るようになります。

そして、その本を読んできた人たちが新たな本を生み出します。

その本の内容の斬新さ、展開の良さ、人を惹きつける文章構成など

学んだ上で、その本を越えようと努力するのです。

そして、良しと思ったものを世に出すことになります。

読者が「この本はパクリじゃん...」と思ってしまうような本は論外ですが

昔のものを超える本は何冊も生まれるに違いありません。

また、今の時代の人にあった本を今の作家は生み出しているはずなのです。

当然、理解しやすく読みやすいものは今の本なのです。

つまり、昔の傑作が今に通用するとは限らないのではないかと思うのです

 

戦争が終わり日本の人々は裕福になり、自由になったと思います。

それに伴いクリエイティブ性も養われてきたことでしょう。

過去から学び、競争も増え、物や情報も増えました。

だから、今現在生み出されるものはレベルの高いものがたくさんあると思っています。

それと同時に、

私の心に刺さる昔の傑作は少ないと感じました。

 

昔のアイドルは逸材だった」

とか「あの漫画を超えるものは未だにでてきてない」

と言ってのける老人たちは、昔の100円の価値は高いにも関わらず

「100円でこんなに買えるの〜!」と勘違いしているアホな若者と相通じるものがあります。

 

 

なりたいと思える人が消える現象について

 

最近、私は「〜みたいになりたい!!」と思うことがなくなってきたなと感じます。

 誰でも憧れる存在は多かれ少なかれいると思います。

 アイドル、モデル、アーティストまたは沢尻エリカになりたい!と考えるはずです。

 

しかし、どういうわけか私はその望みを持つことがなくなってしまいました。

(昔は沢尻エリカを望んでいた...)

 

なぜ、私がそうなってしまったのか分析していきたいと思います。

 

かっこいい!と思う人はいます。

しかし、真似たとしてもその人物を超えることができないのです。

本来、人は自分が一番素敵な存在になりたいと思いますよね。

(なんか宗教っぽくなってきた笑)

ゆえに、憧れの存在を夢見るだけではその欲望は満足しないのです。

 

だから、その人物の良い所だけを真似して他のところは自分の良さを保持したり、別の人物の良い所を取り入れたりすることがベストだと考えました。

これができれば「かっこよさのハイブリット」となることができるのです!

(誰しも欠点はあるから、一人に絞るのは危ない?)

 

この過程を経て、特定の人物本人になりたい!と思うことがなくなりました。

 

もう一つの理由として、自分はその憧れの存在のほんの一面しか見ていないことが挙げられます。つまり、いくらクールな人だって裏で嫌なことがあって、くよくよ泣いているかもしれないし性格が良さそうに見える人でも本当は冷酷な性格をしているかもしれません。

(その逆も然り...)

 

(特に画面を通して見える人)は見かけによらないのです。人を捉えることの難しさが分かってきたから「なりたい」と思える人が消えていったのかもしれませんね。

 

「プリキュアになりた〜い」と素直に言える子でありたかった...

 

 

大敵ストレスについて書く

 

無意識のストレスをいかに減らせるかが勝負

人は少なからず、日々ストレスというものを受けています。

 

原因は様々で、テストが始まる時、何かの発表の直前、嫌いな人に会わなければいけない時など意識できる出来事をストレス感じる〜」と頭に浮かぶでしょう。

 

しかし、この種のストレスは取り除くことが難しいです。なぜなら「学校がストレスだ!」と言い放って、学校をやめてしまうとリスクが大きいからです。

 

自分の人生においての大きい決断をストレスのためにすぐ排除してしまうのは、やりすぎな気がします。

(深刻な場合は別)

 

一方、ストレスは自分の意識していない所でも溜まっている可能性があります。

 

私は、自分の体調が悪くなった時ネットで徹底的に調べる主義なのですが

(病院に行く前に自分で診断!)

どの病気も原因の一つがストレスと書かれていることが多いです!

(免疫系も内蔵の不調も...)

しかし、自分が意識できないストレスを取り除くのは不可能に近いですね。

 

しかし、物理的にストレスになっていることは数多く存在します。

 

例えば、部屋のものの多さ物が多いと、無意識に目に疲れがたまりストレスを受けます。

この無駄にストレスを受けるのは非常に勿体無いことだと思います。

 

他には、温度差や季節の変わり目など、肌荒れを気になりだす人がいますよね。

それは温度変化や湿度の変化によって肌がストレスを感じてしまって抵抗力が弱まるからなのです。

 

このように、生活にはストレス発生物が溢れているのです。

 

少し、このことを頭の中に入れるだけでライフハックできるなと考えました。

 

とりあえず私は、机の前に置いてある化粧水類を別の棚に置き普段は目に入らないようにしてみました!

 

「ストレス軽減」の実感はないですがストレス要因を減らすことは嫌な気分はしませんね。

(何かを変えるだけで不思議とサッパリする)

 

あらゆるものがストレスを発生させるという事実を知ってしまった手前

部屋汚くするわけにはいきません笑

 

無意識にさらされているストレスを減らすことは自分の行動を制限させなくて済むので早い段階でやるべきだなと感じました!

 

 ネットの検索機能がアナログな件

 

ネットの検索機能は便利と言われていますが、意外と不便ですよね。

 

一般的に言われているネットの情報と本や新聞などのアナログの情報の違いを挙げていきます。

 

[ネット]

メリット 知りたい事がすぐに出てくる  

デメリット 知りたい情報しか出てこない(情報が偏る)

 

[アナログ]

メリット 幅広く知識を受け取れる

デメリット 知りたい情報を調べるのが困難

 

このような感じでしょう。

しかし、ネットのメリットに対して疑問を持ちます。

比較対象のアナログな情報よりはこれをメリットとあげる事ができますが、より便利にできる気がします。

 

ネット検索機能の現状として、キーワードを検索すると数多あるHPの中で信ぴょう性の高いものがヒットします。

信ぴょう性が高いというのはアクセス数が多かったり、情報量が多いものを言います。

 

しかし、これらのHPは自分の知りたい内容乗っていますが

圧倒的に知らなくても良い情報の方が多いのです。

 

具体的に見ていきましょう。

 

例えば、ニキビを治す方法が知りたいとします。

ここでは必要な情報は

「保湿を徹底する事」

「ビタミンを多くとる」

「よく寝る」

「3食きっちり食べる」

という事だけです。(知りたいと思ったことはこの4行だけなのです)

 

しかし、ほとんどのHPはニキビができるプロセスを立派な図までつけて解説していたり

100人程度のしょぼいアンケート結果が出ていたり無駄なものが取り付けられています。

 

興味を持つ人は良いでしょうが必要な情報をいち早く知りたい人は

スクロールしまくって知りたい情報の4行だけ読んでHPを去るのです。

 

これは、かなり面倒な行為だなと思います。

 

ネットのアナログ感にとても違和感を覚えるます。

 

「物事を理解するにはその原因も伏せて理解するのが良い!」という教育者の声が聞こえていそうですが、

「 ネットの情報だけで学びを完結しようとは思っていませんのでご安心を」と言いたいです。

(ネットの情報は怪しいということは、ネットリテラシーのある人なら分かるでしょう)

 

結果の4行を見るために膨大な情報を入れるHP作成者の気持ちはわかります。

 

それを見るために自分の記事を読んでもらうことで

アフェリエイトが効率よくできることや

アクセス数を増やす事ができる事

グーグルからのHP評価で検索上位に出てこさせる事などメリットが多いです。

 

しかし、検索エンジンはその手にまんまと乗って検索者の手を煩わしてもいいのでしょうか。

 

ネットにより便利になりましたがさらなる便利さを求めてしまうといういたちごっこですね。

 

 

エモーショナルいーティングについて 

 

 

ストレスが溜まった時、人は本能的にそれを解消する行動をとります。

 

を流してカタルシス効果に頼る人もいれば、体を動かしてテストステロンを増やす人もいるでしょう。

 他にも色々なものがありますが、その一つにエモーショナルイーティングというものがあります。

私の身にもこの現象が起こります。

 

これは、お腹が空いてるわけでもないのに食べ物を食べ続けてしまう現象です。

 私は学生時代は重いテスト前や課題前などにこの衝動が起きていました。

社会人になった今は、新しい仕事を覚えなければいけなかったり出張して環境が変わる時などに起きます。

 

それでは、エモーショナルイーティングをしてしまうプロセスを私の例に倣って分析していきたいと思います。

 

まず学生時代のケースについて。

私は「食べている間は勉強しなくて良い」というルールがあります。

つまり、やりたくない勉強から逃れるために食べてしまっているのです。

現実逃避のための行動です。勉強から回避するのを食行動で正当化しようとする心理が働いていると思います。そして、試験などが終わるとエモーショナルイーティングはなくなります。

一過性のものだと判断しています。

 

そして、社会人のケース。帰宅時、常にとてもお腹が空いてます。だから、とにかく早くたくさん食べたい衝動に駆られます。仕事が終わった開放感も相まって、わっと食べてしまいます。食べる行為は、心を(一時的に)満たしてくれます。リラックスしたいという欲求が暴走した結果、食べてしまうのかもしれません。お腹いっぱいだなと感じても、食品を探し食べてします。特に、新社会人の身としては無意識的なストレスをたくさん抱えているのだと思います。だから、しょうがないと割り切っています。

 私の場合、過食症のように病的に食べるわけでも吐き出すわけでも罪悪感に苛まれるわけでもありません。

 

 

太りやすい体質の人がエモーショナルイーティングをやってしまうと、自己嫌悪感に苛まれてしまうかもしれません。そして、自分を責めてストレスがたまり、そのストレスを発散するために再び食に走るという悪循環になると思います。

 

幸い、私は太りにくい体質なので後悔することは1mmも(1μmも)ありません

ただ、健康的とは言えませんよね。だから、ストレス発散方法としてこれはオススメしません。

私は食べるものにはこだわっているつもりですが、、食べるものがヘルシーなものだったとしても食べ過ぎたらヘルシーではないですよね。(適切なものを適度に!)

 

ストレス発散方法としては、家で歌うことをオススメしておきます笑

近所迷惑になる可能性以外は、害はないからです。

 

ストレスで人の行動が変わります。

病気の原因になることもあります。

しかし、目で見てわかるものでもないのでストレスというものは

本当に厄介なものですね。

 

美容院嫌いあるある言いたい! 

 

私は3ヶ月に1回程度、重い腰をあげて美容院に行ってます。

しかし、私は美容院が嫌いです

 髪を綺麗にするのは好きなのですが、ずばり美容師との会話が嫌なのです。

美容院嫌いな人は、共感してくださると思います。

 

美容師さんはお客さんに話しかけます。おそらく、接客マニュアルに書かれているのではないでしょうか。

そこで、日常会話をしなければいけません。

日常会話とは、基本的に自分のプライベートを話す事に他なりません。

 しかし美容師さんは初対面の人であるため、

私は自分のことをペラペラ言うのを躊躇ってしまいます。

そのため、私は特定の美容院に行かないようにしています。

つまり、髪を切りに行くたびに別の美容院に行くということです。

 

特定の美容院に行くと、会話せざるを得なくなってしまいますね。

 

 特定の美容師と仲良くなりたいという感情が生まれないからです。

(困ったもんだー)

 

しかし、それによって弊害も生じます。

新しい美容院に行くと、

「学生さんですか?」「何大学ですか?」「休みの日何するのですか?」

が王道で聞かれることだと思います。

毎回、同じようなことを聞かれるのは少し面倒くさいですね。

(美容師さんが嫌いなわけではないのですが...)

 

ここ何年かは、椅子に座った瞬時に雑誌をとるようにしています笑

これにより、髪型をどうするかくらいの必要最小限の会話しかして来ない場合があります。ありがたい話です。

 

美容院代はおそらく、美容師の接客代(会話代)も入っているはずです。

だから、接客が手厚くなくても良いので価格を下げていただければ嬉しい限りです。

(他のお客さんには需要ないか...)

 

よく美容院へ行くと美容師と親しげに話している人を見かけます。

それを見るたびに、「コミュ力高っ〜」と感心してしまいます笑

 

 そろそろ美容院を予約しなければいけない時期なので

また新しいところを見つけようと思います。

 

チーム, モチベーション, チームワーク, 一緒に, 一緒, グループ, コミュニティ, グループ作業, 協力

卒業制作について

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 こんにちは、まみずハルカです。

私は大学在学中、建築学科に在籍していました。

建築学科は研究室によって卒業制作を課される場合が多いと思います。私も卒業制作をやらなければいけませんでした。私は今まで真面目に設計に取り組んでいませんでした。大学3年までは設計演習という授業があり、テーマに沿って設計を行います。本当であればそこで、設計のノウハウを学んで卒業制作で活かすのが望ましいのだと思います。しかし、私の場合は全く学ぶ意志のないまま設計演習をこなしていたので卒業設計は真面目に取り組んだ初めての課題と言えました。卒業設計は、大学卒業後建築の道から脱却する私にとって最後の設計になる可能性が高かったです。だから、最後くらいは真面目に、そして自分の好きなものを作ろうと思いました。設計の授業にやる気が一切なかった理由はまた別の記事に書きたいと思います。今回は、設計レベルの低かった私が急ピッチで卒業設計をした話を書こうと思います。

 

まず、設計をする際必要なことは「何を作るか」です。ターゲットを誰にするのかを明確にしなければいけません。私は、ターゲット層に自分が入っているものを作りたいとしか思えませんでした。「子供向け遊び場」「老人ホーム」などを作る気には全くなれなかったということです。対象者ではない自分が子供や老人を慮って自己満で作るのは腑に落ちないからです。(実際の仕事となると、市場調査など綿密にやると思うので自己満に陥る可能性は下がると思うが・・・。)

 

大体のテーマを決め、設計に取り掛かります。紙に自分のイメージを描いて構想を練る作業は私が唯一好きな工程でした。描いているうちにどんどん構想が広がっていくのは楽しいと感じました。ここまでは今までの設計演習の授業とさして変わりません。

 

私の卒業設計において大きな壁は、CADでの図面作成と模型作成でした。今までは稚拙な図面と杜撰な模型を量産していましたが、卒計は自分が納得できるようなものを作ろうという兼ねてからの思いがありました。だから、図面や模型作成の方法を1から学ばなければいけませんでした。(思えば、大学で教わっていないな。)もともと使っていたCADは2Dのものしか書けない(書き方が分からない)ものであり、さらに卒業設計制作時にはライセンスが切れていたので新しいCADソフト(ARCHCAD)をインストールして使い方を学んでいきました。ツールの幅が広い分、それを使いこなすのには相当な時間がかかります。本来ならば、ここで習得したスキルはのちのち役に立つのだが、私の場合は卒業制作のこの一回限りのためだけのために習得することになりました。(今までサボっていたツケがきたのだからしゃあない)

 

毎日のようにファミレスに通い、CADの使い方を立体図形を作りながら練習していきました。思い通りの形を作ることができず、イライラしていた時間を過ごしました。アーティスティックな曲線を用いた建物を設計したかったですが、CADを思いのままに使いこなすことができず断念しました。

 

もう一つの私の課題は模型作成でした。卒計に取り掛かる時点でまともにカッターを使えていない状態でした。だから、YouTubeに上がっていた模型作成動画を見て、勉強しました。そして、まずは机や階段などのパーツを作っていきました。模型作りの機会を増やせば、上達すると考えたからです。 (いきなり、建物を作り始めると、模型の粗さが露呈してしまう気がした)

家具などの作成は特に、細かいカッター作業などですぐに肩と目に疲労がたまります。慣れていないと長時間の作業はできません。だから、できるだけ早い段階でウォーミングアップ的な作業をする必要がありました。卒論の締め切りが終わった時から、少しずつカッターと向き合う時間を増やしていきました。

 

このように、卒計期間の2ヶ月半のうち1ヶ月は図面を描き3Dモデルを作成することと模型のパーツを作ることに専念していました。図面は近所のファミレスJOYFUL(JOYと感じれられる出会い方をしたかった)で描き、模型パーツは家で作成しました。この期間は割ときつかったなと思います。当初から図面を描くことが苦手だったため、ストレスが溜まるのは不可避でした。しかし、単位のためには我慢して乗り越えるしか道はありません。

 

その後の1ヶ月半は模型作成(全体)とプレゼンボード作りに割きました。模型作成は、後輩に手伝ってもらうというのが主流です。しかし私には「建築学科の後輩」という概念が欠如しており、すべて一人で作成しました。後輩を使う場合、基本大学の製図室で作業しなければなりません。私は、周りに知り合いがいるとゾーンに入れない気質なので製図室はあまり好きではありません。だから、模型作成の95%は家でし、敷地模型だけ大学で作りました。模型作成は、コストパフォーマンスが悪いとつくづく感じます。時間をかけた割に見栄えがしないからです。そして、その作業中はクリエイティブ性に欠けるなと感じていました。図面を書いた時点で造形が決まるので、消化試合的にひたすらスチレンボードを切り貼りすることに徹するのです。(時間とスキルがあれば、作りながら図面に戻って調節ができるのだろう)ちなみに、最近ではレザーカッターで簡単にパーツを作れるらしいが、知識の無さと大学への行きたく無さで私は使いませんでした。

 

とまあ、こんな風に卒業設計を乗り切りました。卒業設計を始めた当初は、「最後くらい真面目に楽しくやろう!」という気合いでしたが、実際は「真面目に精神すり減らしながらやった!」感じになりました。設計というものの印象は大学一年生の頃の一番最初の授業のイメージから正直変わりませんでした。向いていなかったのだと思います。就活の時にやった職業適性診断で、建築家の欄が「全く向いていない」とグラフで示されていたことがそれを物語っていました笑

 

では、また〜

 

建築学科について

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こんにちは、まみずハルカです。今回は、私が4年間在籍した建築学科について書こうと思います。

 

まず初めに、なぜ私が建築学科を志望したのか書きます。

私は受験生の頃、建築学科に固執しているわけではありませんでした。理系の学科の中からかっこいい名前のものを選んだというのが正直な理由だったのかもしれません。(「建築学科です!」と言いたかった笑)

私は国立大学だけでなく、私立の大学もたくさん受けました。私立の大学は、理工系や化学系や文系学科を受けていました。どこに行っても面白いだろうと思っていたので、学科は特に拘泥していなかったです。

 

そして、大学に合格して建築学生となりました。建築学科にもともと思い入れはなかったと書きましたが、建築物は好きな方だったと思います。特に横浜の異人館が大好きで、美しい家に住みたいという思いは小さい頃からありました。自分の好きな仕様に家を建てるというのは誰しも憧れると思います。建築学科に入って、建築家になって自由に建物を建てられるようになれるのかなと漠然に思っていました。

 

まず、大学一年の頃は教養科目中心に学びました。その多くが必修科目だったので数学や物理などの授業を受けました。理論系の勉強でした。受験勉強よりも機械作業の学びだったなと振り返ります。私はもともと授業中に授業を聞かないタイプの人間でして、全てを教科書や参考書頼みで勉強をしていました。大学の勉強もそのようにしようと思っていましたが、教科書の説明はとても粗くとても難解でした。(信じられないほど説明が端折られている!)そしてここまで授業を聞かない生活を続けてくると、授業を聞こうと思っても全く頭に入ってこないのです。もはや、落ちこぼれているから内容についていけてないだけだったのかもしれません。だから、これらの教養科目のテストは学びではなく暗記で乗り切っていました。教科書に載っている例文の解き方を暗記し、そのままテストに記すということをやっていました。そのため、基本問題は出来ましたが応用問題は手付かずのこともしばしばありました。

 

そして、大学二年以降は専攻科目が増えていきました。建築の歴史、構造、環境、設計演習など建築関係は一通り勉強したと思います。建築はとても幅が広く覚えることがたくさんありました。だから、大学生の間はとにかく知識を詰め込む時間だと思います。その基礎知識を生かして将来研究をしていくのです。個人的には知的好奇心を刺激された授業は残念ながら一つもありませんでした。その理由は、おそらく現実感がありすぎたからだと思います。人はそもそもよく分からないものを知りたいという欲求を持っています。なんとなくかっこいい建物の「なんとなく」の部分に惹かれているのだと思います。それを唯一の解釈に落とし込み理詰めで解釈するのが単純に性に合わなかったのです。(文系に行けという感じですね。)

 

また、一つの授業を受けるとその先の仕事像が見えて嫌気がさしていました。建築関係の仕事は建築家だけでなく、技術者の道(ゼネコン就職も含む)もあります。「この勉強を専門にして院に進学したらこういう職業に就く」というラインが見えてしまい私はつまらなさを感じてしまいました。根底には「私がやらなくても誰かがやってくれる」という思いがあったのだと思います。これを言うとどんな職業でも同じだと思うかもしれません。しかし、自分の成長という観点からみると若干違う気がします。技術者の方はゲームをクリアしていく感覚に近く、文系職(例えば営業)の方はプロレス対決に近いと思います。ある分野で成功するか、身一貫で成長するかの違いだと思います。どちらの良さもありますが、私は一つの分野で生きることは人として脆弱性を孕むのではないかという結論に至ってしまいました。これまで理系の人間として生きてきましたがそれを覆す結論になってしまったのは正直悲しいです。損をした気分になって落ち込んだこともありました。しかし、考え方の変化はどんな時も肯定しなければいけません。だから、卒業を機に建築から離れることにしました。

 

院進学をする人の目線から建築学科についてを聞くとまた違った回答が返ってくると思います。昔から建築家になるのが夢で猪突猛進頑張ってきた人もいるでしょう。専門授業を受けていく中で建築の耐震について興味を持ち、より耐震性のある建物を開発したいという人もいるでしょう。あるいは、建築物の省エネの効率化を目指している人もいるでしょう。興味を持続して持てるというのは才能であり、社会に役立つ優秀な人間だと思います。頑張ってください。

 

私は気質上、合わなかったので建築関係から退きました。しかし、建築学科に入って建築に関する知識はある程度ついたと思います。物事を理解していくのはどんな事であれ、武器になると思います。こと建築に関しては、普段の生活と密着しています。だから、今後の私の人生を助ける糧にはなると思います。

 

では、また〜

 

 

カリフォルニア(サンノゼ)留学体験記

こんにちは、まみずハルカです。

 

今回は留学の話を書きたいと思います。

 

私は2017夏にアメリカに5週間留学に行きました。

もともと高校の時から「大学に入ったら、絶対留学はする!」と思っていました。

大学2年生が一番暇で、留学するには良い時期だろうと思い決めました。

正直、留学先としては英語圏ならどこでも良いと思っていたのですが

大学のHPで調べたら時期的に都合が良かったのでアメリカに決めました。

 

そこから英語を勉強したり、期待に胸を膨らましました。

 

そして

アメリカのカリフォルニアのサンノゼという都市でホームステイをしました。

 

カリフォルニアで感じたことを羅列して行きたいと思います。

 カリフォルニアで感じたこと

 

 ・晴れの日が多い

5週間も生活したにも関わらず、雨の日は1〜2回くらいしかありませんでした。

空は雲が全くないことが多く(快晴)、空気は乾燥していました。

だから、かいた汗はすぐ乾燥してしまうので暑いのにも関わらず汗をかいた記憶がありません。

知らず知らずのうちに熱中症になることがあるため

喉が渇いたと感じる前に水分補給をするように言われた記憶があります!

 

・物価は高め

アメリカは物価が高いですね。

特に、サンノゼはシリコンバレーが広がる地域で技術者など所得の高い人が住んでいるので物価は自ずと上がってしまいます。

また、世界的に見ても安全な地域らしいです。いつかお金持ちになってカリフォルニアに住むのもありですね!

 

・山が茶色

日本にいると

山=緑、白(雪で)というイメージがこびりついてしまいます。

しかし、カリフォルニアの山は枯れ草に覆われているだけで木がほとんどなく、茶色の山(黄土色)に見えました。

(夏でも緑ではないとは!)

 

・タイトな服を着ている人が多い

季節的に、タンクトップやスキニーを履く人が多く見受けられました。

デザインというより機能性を重視しているのかなと思いました。

ニューヨークであれば派手な服を着る人が多そうですが

サンノゼは堅実?な人が多いのが原因かもしれませんね。

 

・車の車種が日本のメーカーが多い

これも驚きました。

なんとなくアメリカの燃費の悪そうな車が黒い排気ガスを出しながら走っているもんだと思っていたのですが、実際は日本車が多かったです。

トヨタやスバルをよく見ました。

正直、「世界に誇る日本車だ!」と思うことはなく「アメ車が走ってる方が面白いのにな〜」と思ってしまいました笑

 

・高いビルが少ない

ホームステイ先も戸建でしたしその周りも戸建が並んでいました。

日本では場所にもよりますがマンションが立ったり集合住宅がちらほら見られる気がします。(田舎でも)

しかし、サンノゼでは時価の高いところであるにも関わらず高い建物が少なかったです。

(車移動が基本だから、交通機関に近くなくても良いということでしょうか)

 

・変な人が多い

電車に乗っている時、怒り狂ってf◯ckと連呼している人

朝、汚い格好で道ゆく人を見ている人お金をせびるを私は見ました。

治安が良い所と呼ばれていますが、やはり変な人は日本より多かったです。

 

 ホームステイについて

 

一緒に行った他の学生さんたちは2人1部屋のところが多かったですが、

私のホームステイ先は1人1部屋でした!(一人が好きなのでありがたかった。)

部屋も綺麗でしたし、庭にはハンモックがありました。

 私がお世話になったホストファミリーは、サンノゼに住んでいる割と裕福な家庭の人でした。

だから、食事も美味しかったです。

留学前、アメリカでの食生活は全く期待していませんでした。

高カロリーな食事が中心で、ハンバーガーやポテトやピザやコーラ

ばかりというイメージを持っていたからです。

(太って帰ってくるだろうと思っていました。)

 

しかし、なんとそこのホストマザーがベジタリアン(卵を食べるタイプの)で

野菜をたくさん出してくれました

料理上手で毎回、とても美味しいものを出してもらいました。

沢山の野菜が入ったサラダやパスタや手作りアイスクリームをよく食べました。

また、そのホストマザー自身は肉を食べませんが私たちにはチキンなどの肉を出してくれました。

 

ホームステイ先によっては、インド人の家庭でカレーばっかりだったり

高カロリーな食事ばかり出てくる家庭もあったそうです。

これを思うと、私のホストファミリーは確実に当たりでした

 

また、その家のガレージにはカラオケ設備がありました。

YouTubeでオフボーカルのもの(日本語)を再生してマイクで歌っていました。

近所への騒音を考えずに歌うことができます。外国の広い家だからこその特権ですね。

 

そして、私のホストファミリーは毎週山にハイキングに連れて行ってくれました。

近所の山に家族みんなで歩きに行くのが習慣のようです。(仲良しですね)

運動習慣が身についている家庭でした。

さらにホストマザーは健康意識が高く、毎朝1時間走っていました。

とても健康的なライフスタイルだなと思いました!(見習いたいですね。)

 

また、ある週末には

車でサンフランシスコに連れて行ってくれました。

そこでは、古着を買ったり有名なゴールデンブリッジを見ました。

そして、またある週末には解禁になったばかりの山に登りに行きました。

他にも、サンドウィッチを持ってピクニックに行ったりと沢山の経験をさせてもらいました。

(感謝しかないです。)

 

その家庭は留学生を過去に何回か受け入れていたそうです。

文化の違う人との交流はお金では買えない価値があると思うので、

行動選択が素敵だなと思いました。

(私もいつか...)

 

お別れの時は、ワインや私が気に入ったジャム(朝ごはんでこればっかり食べていた)

をお土産にもらいました。

 

とても素敵な人たちだったのでまた、カリフォルニアに行った時には

会いたいなと思います!

 

思い出すままに書いて見ましたが

私の人生にとって密な時間だったなと改めて思いました

 

カリフォルニアディズニーランドの特徴

さて、留学時に行ったカリフォルニアディズニーランドについて考察していきます。

(どんなアトラクションがあるかとかは誰かのHPに載っているはずなので書きませんよ)

 

思ったことを並べていきます!

 

・空いている

東京のディズニーランドは待ち時間が数時間という話をよく聞きますが

カリフォルニアディズニーランドは平均15分くらいだったと思います。

一番並んだのは火山のやつ(名前分からん)でしたが、それでも30分くらいだった気がします。

待ち時間が少なくて済んだのでアトラクションを制覇することが出来ました

 

・作りが荒い

ところどころ日本のものと比べて作りが甘かったりします。

いかにもな釘が見えていたり、材料が安っぽかったりしてました笑

しかし、この粗さが夢の国とのコントラストになっている気がして私は好きですね。

 

スタッフが割と適当

ある一つのアトラクションが機械トラブルで乗れなくなったのですが

その時、いつ復旧するのかその辺のスタッフに尋ねると

「よく分からない〜♪(英語)」という感じで適当そのものでした笑

日本だったらクレームになりそうなものですがカリフォルニアの人は穏やか?なのでこれが普通なのでしょう。

 

・自撮り棒取られた!

館内に入る時、荷物検査があるのですがリュックに入れていた自撮り棒

持ち込み不可らしく必要以上な笑顔を向ける警備員の人に取られました

おそらく、棒状のものは武器になりうることそしてアトラクションで使われると危ないというのが理由なのでしょう。

 

・よく見ると怖い人形たち

これは一番心に残ったかも知れません!

「夢の国」を歌っていますがやはり、アメリカの地はフロンティア精神のもと開拓された歴史があるのでその時の残虐さが人形にも投影されていました。

日本では浄化されているものだと思いますがカリフォルニアはディズニーの本場であるからこそ古きアメリカの色が残るような演出がなされていたと思います。

ただただ綺麗な夢の国ではなくてそれを実現させた開拓者の血みどろな精神が見て取れました。

(高校の時、『ディズニーランドという聖地』という本を読んだ記憶がありますが、

やっと理解できました!)

 

私は、ディズニー信者でもなく

ディズニーの知識もあまりなかったのですが

カリフォルニアディズニーランドは本当に行ってよかったです!

 

 カリフォルニアの大学と日本の大学の違い

カリフォルニアのサンノゼでの留学は、平日は現地の大学で英語を学びました。

と言っても現地の学生と一緒に授業を受けるものを少なく、

一緒に行った日本人と一緒に現地の先生から教わる形式が多かったです。

英語でのプレゼンやディスカッションが多く

これらが苦手な私にとって、とても成長できたと思います。

 

それは良いとして、アメリカの大学と日本の大学の違いを挙げていきたいと思います。

 

 

・構内をスケートボードで移動

敷地が広いことも理由なのでしょう。アメリカは学生のスケボ率が高いです。

(少なくとも私の大学ではスケボで通学している人は見たことありません)

なかなか早いスピードを出している人も多く何回か衝突しているところを目撃しました。

絶対に危ないと思いますが、スケボ禁止にならない所がアメリカっぽいですね笑

個人的にスケボが格好良いなと思っていたので現地の人に借りてやってみました。

が、簡単そうに見えて想像以上に難しかったです。

ゆっくりでもあんなに怖いのにスピードを出すのは気が知れません笑

 

・人種が様々

黒人白人アジア系など来る人来る人いろんな人種の人にすれ違います。

日本の大学は、留学生がたくさんいる所でも大抵、日本人が一番多い人種なはずです。

しかし、アメリカの大学はダイバーシティな人たちがいてグローバル感を味わうことが出来ました。

 

・学食がアメリカン

学食はピザ、ハンバーガー、タコスなど日本ではあまりみられない学食が入っていました。

私は、タコスが気に入って何回も食べました。

今まで、数える程しか食べていなかったタコスですが私の人生史上一番タコスを食べたなと思います!

また、ドリンクがセルフドリンクになっていてカップを買って飲み放題とすることが出来ます。コーラやレモネードなどいかにもアメリカっぽいものばかりでしたが、よく飲んでいました!

 

・部屋のセキュリティ

構内や校内は自由に入れるのですが部屋は戸を閉めるだけで鍵がかかる仕組みになっています。

だから、授業前は先生が先にきてゴミ箱などで抑えていたり、遅刻したときは中にいる人に開けてもらわなければなりません。

きっと、解放しっぱなしだと不良や不審者の温床になるのでしょう。

 

以上、サンノゼの大学について思ったことでした!

 

 

 

では、また〜

 

 

私なりに宗教論を長々と書いてみる

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こんにちは、まみずハルカです。

ついに書くときが来ました!今回は宗教についての話題です。

宗教といっても、具体的な宗派について書くというよりは、それらの宗派の共通点から考えた私なりの宗教論を述べていきます。(圧倒的文系・・)

 

私は、宗教の存在そのものに興味を持っています。私自身は、宗教に入っている感覚のない「ありがち日本人」だと認識しています。自分とはあまり接点のない分野だからこそ興味を持ってしまうのかもしれません。(好奇心爆発しますよね。)

宗教に関する本を読んだりネットで調べたりするのが好きです。

 

宗教の面白さはずばり、「人間らしさが顕著に表れていること」にあると思っています。人はどうして宗教にハマるのかを考えると人間の本質が見えてくる気がします。人間の心理状況が目に見える形で現れていて、とても説明しやすいと感じます。

また、私の中で文化的なものだけでなくカリスマの考えを崇拝する行為も宗教の一部と捉えています。ある意味、信じる信じないということは日常に溢れているのでそういったタイプの宗教を感じる機会は多いです。私は、割と「あ、これ宗教だ。」と思ってしまう思考回路が形成しているようです笑

 

 

では早速、私が宗教について考察した事柄を記していきます。

(私は専門家でもなんでもないので、素人の持論として軽くお読みください。)

 

 

教祖について

宗教には多くの場合、人間最上位とされる教祖が存在しています。

私は、教祖が生まれるという現象が不思議で不思議でたまりませんでした。

私の持論では、努力家の成功者も教祖的資質を持っていると思います。

まず、生まれながらにしてカリスマ性を持っている人はいないと私は思います。カリスマ性というのは多くの要素を含んでいます。人を惹きつける話し方と見た目、威厳のある振る舞い、的確な支持力、人を操るための心理学的知識などなど。これらは後天的に身につくものが多いです。

 

よくサイコパスの人はカリスマ性があってCEOに多いと言われています。(ここでは、サイコパスのCEOは努力家の成功者のカテゴリにはしていません。)しかし、私的には教祖とCEOのパーソナリティは違うと思います。サイコパスの場合、合理的な選択ができるイメージ。感情に左右されることなく、スピーディに決断し行動できます。つまり、リスクを恐れずに見込みがあることに飛びつくのです。

 

一方、宗教は一つの独自の考え方を推しているケースが多いです。例えば、厳しい規律。厳しい規律を設けることで、信者は仲間同士の結びつきを深めたり、よりその宗教に強く惹きつけられるようになります。この規律は、それ自体は合理的なものではありません。むしろ、肉体的に精神的に苦痛を伴うものも多いかもしれません。しかし、教祖と信者の関係を構築するには有効な手段だと言えます。もちろん人の心理を理解し操ることのできるサイコパスの場合、なろうと思えば教祖になり得ると思います。

 

しかし、教祖は自身も本当にその宗教を信じているケースが多いように感じます。なぜなら、「これは、こうだ!」と信者にとっての絶対的な答えを教え導かなければいけないからです。これには、威厳が必要です。愛想の良い笑顔は必要ありません。サイコパスの一つの特徴として、表面的には感じが良いという特徴があります。これは、自分の好感度をあげたほうが他人を操りやすいということを経験的にわかっているからだと思います。ここに、教祖のパーソナリティとサイコパスの特徴に大きな隔たりがあります。

 

また、もう一つの違いとして「信用」があげられます。宗教は、教祖に対して信者は「絶対的な信用」を持っています。不安要因ができた瞬間にその関係は崩壊します。さて、会社において従業員は創業社長に対して「絶対的な信用」を持っているでしょうか。成功する企業は多くの場合、社長の右腕になるような相方がいます。この相方が、社長のカリスマ性を信じその他の対人関係や発生した問題などのいわば尻拭いをします。そうしなければ、多くの従業員は社長についていきません。大多数の人は安定を求めるため、クリエイティブな決定をする社長に対して反発します。

 

つまり社長の右腕になる相方が、社長の選択を噛み砕き妥当性を従業員等に分からせているのです。(社長の考えは好きだけど、人間性がなあと思う従業員も多いのではないでしょうか。)そして、会社として結束を保っているものです。これが、うまく行かないと社内分離が起こります。割と、会社(特に小さい会社)は脆弱なものだと思います。長々と書いてしまいましたが、以上の理由から教祖とサイコパスの特徴は合致しないと私は考えました。

 

次に、教祖のバックグラウンドとパーソナリティについて分析したことを書きたいと思います。まず、先ほども書いたように努力家の成功者と教祖は似たパーソナリティを持つのではないかと思います。そして、努力をする理由は自分に強烈なコンプレックスを抱えていることにあると思います。例えば、いじめられたことがある・貧乏だった・身体的に問題があった・学歴が低い・モテないなどが挙げられます。その自分を認められないため、自分を帰るために多大な努力を自分に課すのです。どうしたら、人に自分の言動を理解させることができるのかなど熱心に勉強したり試行錯誤したりします。そして、その並々ならぬ努力により一般人から見るとその人は人間離れした存在に見えるようになります。

 

ここで、教祖に必要なカリスマ性が発現します。人は、一見してカリスマ性を見極めることができます。ここで、教祖がやらなければいけないことは自分のコンプレックスを絶対見せないことです。努力する過程は時と場合によって見せることはあると思いますが、コンプレックスは見せてはいけないのです。なぜなら、「目的(コンプレックスを凌駕したい)→行動」のプロセスはとても人間らしい言動だからです。教祖は人間離れしなければ、信者と対等な立場になってしまいます。それでは、宗教の構造が狂ってしまいます。

 

つまり、教祖はコンプレックスを見せず途方も無い努力を行う必要があるのです。

また、対信者に対しての言動は「威厳を持って言い切る」スタイルだと思います。優柔不断な言動や曖昧な表現をした瞬間、信者は不安になってしまいます。だから、自分の意見は絶対であると自分自身が信じていて言い切る必要があります。だから、自分の意見を強く断言するのです。断言するのが苦手な人は、断言する練習やプレゼンの練習を死ぬ気でするのです。

 

今思い出したのですが、大学生の頃「完全教祖マニュアル」(ちくま新書)という本を読みました。(少し、話が脱線します。)

たしか、そこに教祖になるために必要な具体的なことが書いてあるはずです。私はバックグラウンドやパーソナリティから教祖特性がある人について言及してますが、この本は後天的に(物理的に)教祖になる方法が知れます。(再確認してないので曖昧ですが。) 気になる方はチェックしてみてください。(面白かったと思います。)

 

話を戻します。普段は威厳があり神がかっているように見える教祖ですが、常にこのような振る舞いをしているわけではありません。これも、前にオ○ム真理教の信者について書かれた本を読んだことから推測しますが、時に信者に対して優しい言動をするそうです。つまり、普段皆の前では威厳ありまくりな言動をしてくれるのに、1:1の時などは一時的に優しく接するというのです。ここで私の思考センサーが反応します。「依存」を生み出すメカニズムと同じではないか!(この私、「依存」についての話(特にゲームや食べ物)も大好きなのです笑。)たしか、「インターネット・ゲーム依存症ネトゲからスマホまで」(新潮新書)に詳しいメカニズムが載っていたと思います。(これも大学生の時に読みましたが、この本はまじでオススメ!)

 

一時的な優しさにより、強烈なインパクトを人の心に残すことができます。そして、普段は「あの優しさが欲しい」と無限に求めるようになります。このように求めている時にドーパミン(幸福ホルモン)が出るそうです。私が衝撃を受けた事実は、好きという感情よりも欲しいという感情の方が多くのドーパミンが出るということです。(買い物依存の核心が見える気がしますね♫)

そして、信者は教祖に依存し宗教の仕組みが構築します。

 

信者について

まずは、信者のパーソナリティから書こうと思います。主に挙げられるのは、以下の3点かと思います。

 

・現状、社会や生活に対して何かしらの不満を感じている人

・根が優しい人

・優等生タイプな人

 

一つ目の特徴について。

現状に満足しているのであれば、新しいことを始めようとは思いません。宗教に興味を持つ時点である種、刺激を求めているのかもしれません。逆に考えると、自分の力だけでは現状を変えることができないから宗教に頼るのだと思います。

 

そして、二つ目の特徴の「根が優しい」について世の中は理不尽なことだらけなのは動かぬ事実です。しかし、根が優しいつまり正義感が強い人はこの状況に疑問や不満を持ちやすいのです。だから、その心の隙を突くのです。自分を認めてくれない社会を否定し、自分を無条件に認め愛してくれる所属を肯定するのは簡単だと思います。この所属は、入信してきた人を手厚くもてなします。そして、それ以外の縁を徐々に切らせれていきます。(カルト系宗教は家族の縁まで切らせますよね。)

 

三つ目の特徴の「優等生タイプ」について。

一般的に宗教そのものに対して非合理的と思う方も多いですが、信者はその団体のあり方について合理的に感じていると思います。宗教の多くの場合、「階級」が存在しています。つまり、信仰の度合いで信者を評価するシステムがあります。これは、会社の体系と似ているようで違うと思います。なぜなら、宗教の方は「努力が報われる」からです。ご存知の通り、社会は「結果を出せなければ評価されない」です。宗教の場合、信仰を態度で表しさえすれば着実に階級が上がります。そして、この階級こそが唯一の価値基準になります。そのため、信者はその道さえ見ておけば安心して生きることができるのです。自分が努力した分がそのまま結果になってくる世界は、とても優しい世界ですよね。この優しい世界は高校までの勉強に相通じると思います。特に暗記科目などは、やればやっただけ点数に繋がります。テストの点数を上げることに心地よさを感じるのは、自分の努力に対して結果が着実について来るからだと思います。つまり、優等生タイプは宗教の世界に適応しやすいと思います。(もはや受験勉強というもの自体、宗教感ある。)

 

宗教の根源を自分なりに解釈

昔から宗教は存在していて、文化に根付いてきたものと言えます。

 

例えば、農耕民族について。祭りや奉納の儀式を通じて、人々は厄が来ないように祈ったり豊作だったことを感謝したりしていました。(通説として。)

つまり、自分では理解や把握しようのないこと(災害など)を超越したもの(神)に委託しているのです。この超越した存在は非常に便利で自分(人間)の都合の良いように解釈できるのです。つまり、このシステムは「人が絶対的に満足するもの」なのです。(人が生み出したものと言えるので当たり前っちゃ当たり前ですね。)

 

祈りと感謝のループにより、自ら作り出した神が本当にいるかのように信じ始めます。(いるかもしれませんが、話が逸れるのでここではいないと仮定します。)

 ご都合で考えた存在であるにも関わらず、まるで芯を突くような存在が自然発生的に生まれたと錯覚し信仰を深めます。これは、何世代にも渡り強まっていくものなので生活に根付きます。生活に根付くことで、その所属の仲間意識や選民思想なども相まって宗教が確立していくのだと思います。

 

特筆すべき心理効果3つ

・返報性の法則

・一貫性

・選民思想

 

一つ目、「返報性の法則」について。よく言われるのが、宗教は入り口が広いです。だから、初めはヨガ教室などの趣味サークルだと思っていたら実は宗教団体だったという事例は後を絶ちません。そして、初めは手厚くもてなします。習い事の無料体験ができたり、お菓子やご飯を振舞われたりなどします。また、物理的なものだけではなく信者は新規の方に対して、全てを包み込むような笑顔や異常なほどの心遣いを与え続けます。それを受け取った新人は、無意識的に自分も何か返さなければと思い行動を起こします。ここで、相互に与え合う関係性が生まれ、そして良い言い方をすれば「優しさの連鎖」が勃発します。

 

そして、二つ目の「一貫性」について。人は、「YES」を言い続けると「NO」と言いにくくなるという心理を持っているそうです。入信前の例で説明します。

「ヨガ教室無料体験してみませんか?」→「YES」

「美味しいお菓子いりますか?」→「YES」

「美味しいご飯食べていきませんか?」→「YES」

「また、集まりませんか?」→「YES」

こんな具合で、次の約束を取り付けることができます。

このように、特に強い反発心や警戒心を持っていなければずるずると沼にはまっていく可能性が高いのです。(心理学面白いなぁ)

 

次に、三つ目の「選民思想」について。

人間誰しも、自我があるので「自分は特別」と思っています。(私もあなたも)

これを「スポットライト効果」というらしいです。自分にかかる出来事が大きく見えて、どう頑張っても完全には自分を客観的に捉えることはできません。

ここで、それを他者などの外部から増幅させるとどうでしょう。人は、自分は特別なんだという思いを強め気分がよくなります。(マズローさんの欲求のうち承認欲求が満たされる。)そして、自分一人だと主張できなくても複数人だと主張や行動が一段と強まります。よりスポットライト効果が増強され、「自分(自分たち)は特別」という概念から抜け出しにくくなります。そして、それ以外の人にその概念を認めさせようと行動し始めます。なぜなら、自分が特別扱いされるのが当たり前で、「特別扱いされていないことが不当」という歪んだ思想が根付くからです。

 

 

最後に

上記のようにいろいろ書いてきましたが、やはり宗教について考えるのはとても面白いですね。人の心理に働きかけるような仕組みが宗教には存在していて、一見繋がりがなさそうな日常生活でも宗教的体系が宿っていたりします。

私は、日常的な宗教を見つけるのが得意です。(はい、死ぬほど役に立たない特技多すぎ笑)

しかし、「信じるものは救われる」というのはあながち間違っていないと私は思います。だから、斜に構えて生きすぎないというのを肝に命じて生きたいですね。

 

あと、ここに書いたのはあくまでも本好きな素人によるなんの科学的根拠のない宗教論です。

参考にしないでくださいね笑

 

「はぁ〜、こんなこと考えている暇な人もいるんだな〜」くらいに思ってください!

 最後に私の宗教についてのメモの一部を公開します。我ながら、自分の精神を心配してしまいます笑

そして、解読できないので理解できた方はご一報ください?!

(たぶん、哲学してたのだと思います笑)

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メモ1

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メモ2

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メモ3

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メモ4

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メモ5




では、また〜

 

 

私が持っているあまり役に立たない検定たち

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こんにちは、まみずハルカです。

 

今回は、私が持っているあまり役に立たない検定たちを紹介したいと思います。

私は資格マニアでもなんでもないですが、気づいたら色々持っているなと感じました。話のネタになったり、たまに役に立つので「全く役に立たない」とは言えません。だから「あまり役に立たない」という言い方にしました。人にこれらの検定を持っていると言ったとしても、「お!」とはならない検定たちだと思います。

 

 

 

テコンドー8級

実は、私は一年間だけテコンドーをやっていました。その際に、型を覚えて課題に合格すると級を上げることができます。しかし、その昇級試験を私は1回しか受けたことがありません。だから、初心者に毛が生えたレベルなので人にはあまり言えません。(今はルールさえもあやしいです笑)

 

硬筆検定3級

これは、高校生の頃に学校で取得しました。履歴書の資格の欄に書けるらしいですが、一度も書いたことはありません。字の上手さというよりは、文書のバランスや配置が重要視されている印象の検定でした。2級、1級だと見栄えがしますが3級は中途半端かなと感じます。

 

茶道裏千家初級免状

私は高校三年間、部活とは別に茶道を習っていました。週一回のお稽古は受験勉強中の癒しだったことを覚えています。お茶を点てることは普段はほとんどありません。しかし、お茶会の場では茶道のマナーを守って楽しむことができます。京都などでは寺でお薄を飲むことがあるので、その時に恥ずかしくない程度の作法は身につけたつもりです。現在、お茶を振る舞う立場になることはありません。30年後くらいに、また始めたいなと思っています。

 

漢検7級

たしか小学2年生の頃に取得しました。それ以降、一度も受けていないので7級止まりです。大人になってからこの級を言うのは、逆に恥ずかしいですよね。もちろん、言いません。この級の検定は、小学生当時に取ることに意味がありますね。漢字の勉強のモチベーションを上げるために漢検を利用するのは良いと思います。

 

ITパスポート

これは大学生になってから取りました。ITに関しての基礎を知ることができました。初歩的なものなのでこれを活かして仕事をするというのは現実的ではないと思います。教養のための取得ですね。ここからは、ITパスポート受験について詳しく書きます。

  

ネットの情報で「ITパスポートは簡単!」と書いてあり、私はそれを鵜呑みにしました。

1週間後のITパスポートの試験に申し込みました。(前日まで申し込み可能!)

 

そして、1週間だけの勉強のために、参考書を買うのが嫌だったので私は大学の図書館で借りました。しかし、この参考書は4年前のものでした笑

情報系の問題は時代に左右されるので、これから受ける人は最新版の参考書を買う事をオススメします。(実際の問題もIoTなど最新技術についてが出てたな。)

私がやったITパスポート勉強のプロセスをざっと書いていきますね。

 

1〜3日目

参考書を一周読む。覚えにくい単語も無理矢理頭に叩きいれる。章ごとに過去問の例がついていたのでそれもやる。

 

4日目

参考書の過去問の例をざっと解き直す。

 

5日目

ITパスポートのHPに載っている最新の過去問を解き、しっかり復習する。間違えた所は参考書と対応させて理解する。

 

6日目

参考書をもう一度流し読みをする。どうしても、覚えられないところにふせんを貼って、合間合間に読み込む。

 

という感じでした。思っていたよりかは大変でした。暗記が多いからです。

しかし、私は長期戦で勉強するのが苦手なタイプです。だから、短期決戦で詰め込みました。

3文字羅列されたアルファベットを覚えるのは苦痛でしたが、ITパスポートの勉強は、楽しかったです。なぜなら、自分がお世話になっているITについて体系的に知る事ができるからです。

 

ツールとして、私たちはITの恩恵を受けています

その奥にはシステムを作った人や複雑なアルゴリズムがあります

自分の周辺を把握するのはできているようでできていないと思います。

目で見えない部分を知識として頭に入れることで、生活に重みがでる気がします。

 

話は戻りますが、ITパスポートは情報系の国家資格の中で一番簡単なものだそうです。

学校によっては、これを取ると授業免除できるらしいです。(うらやましいですね。)

 

私は資格の勉強を初めてやってみましたが、自分の専門ではない分野を勉強するのはよいなと感じました。「広く浅くタイプ」の人間がそこまで評価される世の中ではないですが、

自分の視野を広げることは物事を多面的に見れるようになると思います。

(そう信じてます笑)

 

 洗濯ソムリエジュニア

洗濯ソムリエとはNPO法人日本洗濯ソムリエ協会が認定している資格です。あまり世間に知られていないため、私はこの資格を持っていることを人に話したことはほとんどありません。もちろん、履歴書の資格の欄には書きません笑

 

中学か高校の頃に取得しました。名前にジュニアという文字が入っているのでダサいですね。大人で取ったとしてもジュニアになります。この上の階級のものが何年も出ていないので、実質ジュニアの級しかありません。せめて初級という言い方にしてほしいです。

 

 

私が、なぜ洗濯ソムリエジュニアの資格を持っているのか経緯を書きます。

当時、アメトーークで「おもてなし大好き芸人」が放送されていました。たしか、私が中学生の時だったと思います。そこで、とある芸人さんが「洗濯ソムリエジュニア」の資格を持っているという話が出てきて、初めてその存在を知りました。受けるつもりはなかったのですが、ネットで調べてみることにしました。試験は自宅のパソコンで受験が可能で、テキストを見ながら受けることができると書いてありました。

 

登録料は3000円ほどで、これなら簡単にできそうだと思い申し込みました。専用のテキストが送られてきて、一応全ページに目を通しました。内容は正直覚えていませんが、洗濯の仕方についてが主だったと思います。(詳しい情報はネットで調べてください。)

そしてネットでの試験をさらっと受け、さらっと受かりました。テキストを見ながらなので、とても簡単です。受かると、認定証の盾が贈られてきます。認定されるには、さらに3000円を払わなくてはいけません。3000円で盾を買うイメージですね。(全部で6000円かかる)

 

ちなみに、現在「洗濯ソムリエジュニア」しか受けられないです。つまり、ジュニアではない「洗濯ソムリエ」は準備中ということです。私が受けた7年ほど前もジュニアしかなかったので、かなり時間がかかっているようですね。ジュニアというと小学生のイメージがあり、少しダサいです。だから、資格の欄や趣味欄に書くのが憚れます。

 

余談ですが、当時お笑いが大好きだった私は無限大ホールでそのきっかけとなった芸人さんの出待ちをして、「洗濯ソムリエジュニア」の資格を取ったという話をしました。その芸人さんの反応が薄かったので、その瞬間にその芸人さんに興味がなくなりました笑。まあ、これもまた良い思い出です。

 

洗濯の知識を学びましたが、今ではほとんど全て忘れています。だから、洗濯ソムリエのテキストを探し出してまた学んでみようかなと思います。

一度学んだものは再度手を出しやすいため、できるだけ早い段階で多くのものを脳に入れるのは今後の人生を豊かにするために有効かもしれませんね。

 

TOEFL ITP

大学で強制的に受けさせられた英語の検定です。「TOEFL」や「TOEIC」であれば、就活や院受験で使用できますが謎の「ITP」という文字が入っているため何の役に立ちませんでした。

 

GTEC

高校の頃に受けた、TOEICの子供版のような英語検定です。毎年のように受けましたが、毎回解く問題数を間違えていました。高校卒業以降、GTECという文字を見たことはありません。

 

まとめ

 

以上、私が持っている「あまり役に立たない検定」でした。

難しい検定ではないですが、様々な分野で知識や教養を深めるのには良いツールだと思います。学びの目的は必ずしも役に立つこととは限らないため、範囲を縛らずに学んでいきたいなと考えています。

 

また、「この資格をとった!」という事実は何の価値もないと私は思います。

それをとるための勉強で、「自分が何を得ることができたのか」というのが最重要事項。

資格だけでなく、大学の単位にも同じことが言えますね。

残念ながら、私は大学の単位取得のために勉強していた時期が長かったです。

(理由は別の記事に書いたよ。)

 

社会人としては、この「身にならない勉強」は決してしないようにしたいです

本来は自分が学びたいものを学ぶのが「大学」だと思うのですが、それを実現させるのは難しいですね。社会人になってまで「強制される勉強」はしたくないです。

自分で学びの対象を選択して、スキルアップしたいなと思いました。

 

 

では、また〜