まみずハルカブログ

私の日常もあなたの非日常。とにかく雑多に書いてます。

学校の先生について考察する

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こんにちは、まみずハルカです。

私は大学の卒業を機に教育機関からおさらばします。学校というのは、基本的に先生と生徒がいます。学校生活の中で、割と先生について考えることが多かったので今回は学校の先生について書こうと思います。

 

昔から先生が嫌いだった

 

 私は先生の9割は嫌い、あるいは苦手です。

ここで言う先生とは、義務教育の期間に生徒を教える立場にある人のことです。

 

私が先生というものを苦手とする理由は二つあります。

論理的ではないことへの不信感」と「権力行使」の二つによります。

「 先生の言う事はよく聞きなさい」と多くの親は子供に教育しているのではないでしょうか。(幸いにも、私の親はそんなことは言わなかったけど...)

 

しかし、先生は子供に命令するのは許されていないはずです。

子供であっても、一人の人間であるため基本的人権は尊重されなければいけません。

(憲法だ!)

教育と命令は似ていてはいけないと私は思います。

しかし、多くの先生は「〜しなさい」と言ってしまうわけですね。

 

それが、「その生徒のため」というのは論点がずれていると思います。

 

小さい時に、「先生の言うことを絶対聞かなくてはいけない」ということを洗脳する

日本の義務教育はどうかと思います。

(また、現状の教育批判になってしまう...)

 

昔から私は、先生のこのような態度に対して反抗的で生意気だったと思います。

少なくとも、従順で懐くような子供ではなかったです。

(あまり先生と関わりたくなかったため、特別なアクションは起こさなかったですが...)

 

当時の私はプライドが高く上から指図されたくない気質だったのか、

先生という偏った職業につくような人が苦手だったのか今でも分かりません。

 

しかし、私の心には「将来は小中高の先生には絶対なりたくない」という思いが

根付きました。

(きっと人に教え導く系の仕事は向いてない...)

 

5%くらいいる好きな先生について

先生のうち9割が嫌いな私でも好きな先生はいます。

 

ここで、小中高と大学の先生像が割と違うので触れておきます。

 大学の先生は教授と呼ばれ、名前も違います。

 何と言っても、教育を仕事の第一目的にしてない点が明らかに違います。

 

自分の研究の片手間に授業を行ってる場合が多いのです。

つまり、私が思っていたような「先生特有の嫌み」は大学の先生においては格段に少なくなります。

 

大学の授業は相変わらず、つまらないことが多いです。しかし、害になるようなことはほとんどありません。だから、私は大学の先生のほとんどは嫌いではないです。

 

話を戻しますが、好きな先生とは

 結局、「タイプな人かどうか」だと思います。

 

異性ではなくても、人として魅力的な先生を好みます。

単純にその先生に興味があればその人の話(授業内容)も頑張って聞きます。

テスト勉強やレポートも集中してできるでしょう。

 

私が高校の時、全然授業面白くないイケメンの先生がいました。

顔がイケメンであるだけ、その先生はモテていました。だから、その人の授業で寝る人は一人もいなかったのです。

(授業がつまらなかったので、私だけは自習していました笑)

 

結局、イケメンや美女を先生にすることが生徒の成績アップに繋がる気がしますね。

 

だから、小中高は先生を美男美女にすることを推進すればいいと思います。

(「教育機関=学力を伸ばす所」と考えるのであれば...)

暴論であることは承知です。

顔面格差問題にも発展しそうですね。

 

教育については考えれば考えるほど問題が出てきますね。何かを解決しようと思ったら、別の問題が出てきます。「先生」という職業の人は保守派が多く、年功序列なので

新しい教育が生まれるのは遠い道のりだと私は思います。私は古株と莫大なエネルギーを費やして戦う気はないので「先生と生徒の関係があるような教育」に関する職業はつかないです。

(先生の適性がある方は是非頑張ってください!)

 

【余談】先生の顔思い出しゲーム

最近、昔のことをふと思い出すことが多くなった気がします。その一つについて、書こうと思います。

 

夜布団に入った時、中高の校舎が頭に駆け巡りました。私は中高一貫校だったので6年間過ごしていた校舎です。大学の4年間一度もこの建物を思い出すことがなかったのですが、急に記憶が蘇ったのです。(大学生活と就職の狭間にいるからでしょうか)

 

校舎内の廊下を想像し、VRのように段階的に部屋に入って行きます。そして、当時の情景とリンクさせておきます。考えれば考えるほど鮮明になってゆき、目を瞑りながら一人で「懐かしー↑」と何度も声を上げていました笑

私の性格上あまり過去を振り返らないので、これがとても新鮮な体験でした。卒業アルバムは一応同じ屋根の下にありますが、全く開けていませんでした。

話を戻しますが、一通り思い出せるだけの空間をイメージした後、次のフェーズに移ります。

「先生を思い出せるだけ思い出そう」というゲームを始めました。(何やってるだか笑)

自分の担任や比較的好きだった理科の先生方はすぐ思い出せます。しかし、短期間だけ教わった先生などは印象が薄くは思い出すのに苦労しました。しかし、時間をかけるとぽつりぽつりと顔が思い浮かぶのです。一番、感動したのは一度も授業を受けたことのない先生です。委員会か何かで数回しか顔を合わせていないような先生を思い出したのです。思い出しても何の得にもなりませんが、アハ体験なみの爽快感を得ました。(大げさではないです)

 

ふと、私のことを覚えている先生はほとんどいないだろうなと改めて思いました。私に限らず、先生一人に対して毎年たくさんの生徒に出会う訳だから、生徒一人当たりの記憶のキャパと比重は自ずと低くなるはずです。こと、「顔に特徴がなく、覚えられにくい」自称スパイ顔の私を現在まで記憶するのは至難の技でしょう。となると、生徒と先生の関係というのは非対称性を持ちますね。基本的に、生徒は「教えられる立場」で先生は「教える立場」です。1人:30人という構成はやはり違和感があります。たとえ、先生生徒間でお互いに尊敬の念を持っていたとて、壁は確実にあります。

 

また教育の話になってしまいましたが、「学び」はフェアである必要があると私は思っています。つまり、学ぶものと学ばれるもの(知識など)は対等なのです。先生が講義する授業はいわば、先生のスピード話し方教え方の押し付け他なりません。フェアな学びとは思えません。誰もが「この授業は意味がない」と斜に構えていた時期があると思いますが、私はずっとそして今も当時を思い出しては「時間の搾取」だったなと思います。(あくまで「学」の話であって「学校生活」の話ではありません)

 

当時の私は、先生の授業をほとんど聞いていませんでした。しかし、居眠りをするような反抗的な生徒でもなかったので授業中は頭を空っぽにして黒板を眺めたり、気分が乗っている時は教科書を読んでいました。教科書というのはとても合理的に話を展開し、読むだけで学びがスムーズになるアイテムです。(コラムも多い)

 

教科書と問題集だけで授業は十分だと私は思っていました。プラスアルファの話は本で補ったほうが効率的ですよね。とまあ、このように当時も考えていました。私がやっていたのは、とてもフェアな学びだったなと思います。

 

授業は効率だけ考えるとあれですが、その時間を拘束されることで「一切学びをしないよりはマシ」の状態は作れるので良い悪いを一概には言えないかもしれません。自分の意志で知的な学びをするのは確かに難しいよなとも思います。私も授業中ぼーっとする時間があったから、教科書の偉大さに気づいたし、椅子に長時間腰掛ける修行を修行と感じなくなる精神力が身についたのかもしれません。あー、夜中にやっていた「先生思い出しゲーム」の話から外れて教育論講じてしまった。

 

 

以上、学校の先生について書きました。

では、また〜