まみずハルカブログ

私の日常もあなたの非日常。とにかく雑多に書いてます。

【映画日和】劇場映画5作品を振り返る

最近見た映画を簡単に振り返りたい。アウトプットしないと、趣味から消費のランクに落ちてしまう気がするので軽く書く。(ネタバレ含みます。)いつも見る映画が偏っているので、他映画と比較して評論したり、あらすじを書くなどはしない。あくまで、自分が気に入ったシーンや感じたことを書き殴っていくので悪しからず。

 

「SING 2」

Universal Pictures Japan

SINGがシリーズ化したもの。元祖SINGを見たことがあり、良い印象を持っていたので鑑賞を決めた。アニメ系映画を基本的に見ないが、なかなかよかった。(今回も無事泣いた。)

私が一番好きなキャラクターは、ストリートダンサーの猫。(名前はわからん。)エネルギーに満ち溢れていてポジティブ。既存のやり方に捉われていない所がかっこいいなと思った。

 

そして、一番好きなシーンはやはり最後のミュージカル部分。キャラクターごとの性格や人生が反映されていて、集大成という感じがした。特に、演劇社長のわがまま娘のオオカミの舞台が特に良かった。自分の悪行(わがまま)を反省し、全力で目の前のことをやり切る姿は素敵だなと思った。(そして、このオオカミちゃんの声がかわいかった。)

 

エッシャー通りの赤いポスト」映画『エッシャー通りの赤いポスト』オフィシャルサイト 2021年12/25公開

有名俳優や女優がメイン登場人物として出ていない、園子温監督作品。一見素人映画のように見えたが、役者さんの全力演技が上手く、さすがに完成度が高かった。(役者さんの全力さに泣いた。)

 

私が一番好きな登場人物は、公式HPで「殺気立った訳ありの女」と紹介されている藤丸千演じる「安子」だ。この子の真人間っぷりが最高だった。人生を全力で生きている人、表層的に取り繕うことなく本質を突く発言が完璧だった。そして、圧倒的なルックス。かわいい女の子がこの真人間的性格になるのは現実世界ではほぼありえない。なぜなら、容姿端麗な人は他人からちやほやされるため、綺麗な心を持ちやすい。その反面、現実の汚い部分を見る盤面が少ない。だから、天才でない限り、社会に反抗して現実を突きつけるような言動を取らないのだと思う。

 

しかし、映画内なら存在できる。容姿端麗な真人間。ダントツで大好きだし、憧れる。(あー、なりたい。)陳腐な言葉だが、1日1日を後悔せずに生きなければダメだと改めて思った。映画のテーマが「人生のエキストラになるな」らしい。日常の中で、自分の立ち位置や程度を決めて、忖度しながら社会人を全うしている。これもある種必要なスキルだが、一番大切なものでは決してない。いつでも「自分がどうありたいか」と「理想の自分になるにはどうすべきか」を問いながら生きなければならない。自分の現状を見つめ直し、悪癖を正すきっかけになった映画かもしれない。

 

「夕方のおともだち」

夕方のおともだち (CUE COMICS) | 山本 直樹 |本 | 通販

始まりのシーンからSM描写が炸裂していた。普通に淡々と生きているように見える人ほど、なにかのきっかけで常人とはかけ離れた癖を持つようになるのだろうか。特に、仕事ができるわけでもモテるわけでもない陰気な人ほどこの傾向を持つのかもしれない。そして、変人と化していく。私は日常生活で変人ウォッチャーをしている。

だが、お眼鏡に叶う変人はなかなか見つからない。面白そうだと思って近づいても、忖度が見え隠れしていたり、意志が弱かったりして幻滅する。私の生きている界隈(会社員として一生を終える系)では変人率はかなり低い。なんなら私が一番、変人なのかもしれない。

 

話を映画に戻すが、会社とプライベートを分けて、プライベートに非日常を求めようとする感覚は共感できる。主人公の見た目冴えないおっさんは、退勤後ハードSMクラブに通う。そして、心を満たすのだ。仕事内容、勤務時間などルーティン化すると、外に刺激を求めるのは無理もない。交友関係が広い人や家族を持つ人なら、プライベートの会話である程度の刺激が安定供給されるだろう。

しかし、そうではない人は自分の生活がつまらなく思えてしまう。「何のために生きているのか」という命題に一瞬で行き着き、答えがでないまま悶々と過ごす。そして、ふとした拍子に人生の転換期を迎える。この主人公の場合、SMクラブとの出会いがそれだ。私も交友関係が広いわけでも所帯を持っているわけもない人間のため、人生の中でどう転換期を迎えるか少し怖い気がする。

 

「ドライブ・マイ・カー」

映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイト

これはじわじわと面白くなる系の映画だ。おそらく、動画配信サイトで鑑賞した場合、途中で退屈になって寝るか見るのをやめてしまうだろう。しかし、劇場で最後まで見ると感傷に浸ることになった。

 

映画タイトルにもあるように運転シーンがたくさんある。最近、私は訳あって自家用車を廃車にした。運転をするのが好きなのだが、この映画を見て余計に車が欲しくなった。役者の主人公は運転中に、セリフを吹き込んだカセットテープを流し台本を覚えることをしていた。これは、彼にとって車内でする最適な習慣なのだ。私も毎日のように運転していた日々は、車内を楽しんでいた。いつでもできそうなことだが、運転中にするのが最適なことがいくつかある気がする。

私の場合だと、「歌うこと」と「一人プレゼン」だ。これは家でもできそうなことだが、賃貸の壁薄アパートでは全力でできない。車内だと心置きなくできるから好きだ。そして、わざわざ時間をとってやることでもないことがいい。運転は一応、目的地があり、それに向けて車を走らせる。カーナビがあるため、道に迷う心配も頭を使う必要がない。だから、法に触れない「ながら運転」がしやすい。運転にある程度慣れている人なら、割とリラックス状態でいれるだろう。

 

「死刑にいたる病」

映画『死刑にいたる病』オフィシャルサイト 2022年5月公開

猟奇的な犯罪を繰り返す一見優しそうな男の話。阿部サダヲの真っ黒でブレのない目がサイコパスとリンクしていた。爪を剥ぎ取るようなグロシーンは目を背けたが、内容としては考えさせられるものだった。サイコパスは持って生まれた気質ではあると思うが、歪んだ環境下で生きることで、よりその悪い面が助長されるのだろう。

 

魅力的で頭が良くて完璧に見える人ほど、それなのかもしれない。人を操ることに快感を覚えるのは人の本性かもしれないが、共感性のある普通の人間ではできない。それを成し遂げるのが、オウムの教祖のような人格なのだろう。自尊心の低い人間へ「自分はあなたの理解者だ」「あなたはできる人間だ」と伝え続けると確かに人を変えることができる気がする。これを良い使い方をすれば、みんなハッピーになりえる。

 

ただ、この人の自信をつけさせる側の人間は、かなり強い精神(人並み外れた精神)を兼ね備えていないと成立しない。なぜなら、人を褒めるのは自分自身に余裕がないとできない。自分のメンタルが安定していないと神経は自然と自分に向いてしまう。そして、人間らしく自己中に考え行動する。では、一般人がサイコパス風(映画内の当該男風)に振る舞うとどうなるか。自尊心の低い人間はおそらく、人の本音を見抜くのが上手い。だから、取り繕った言葉は一切心に届かない。つまり、無理して放った言葉は効力がないのだ。

サイコパスは息を吸うように自然に褒める言葉を言える。心から思っていなくてもそれを本音として一般人は受け取る。感情がないのは、嘘でも真実でもなく無なのだと思う。

デジタルデトックス1ヶ月続けた感想

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お久しぶりです。まみずハルカです。

 

1ヶ月前まで私はパソコンに取り憑かれた人生を歩んできました。大学生の頃からブログを書いたり動画を見たり、日常の中にパソコンと対峙する時間を多大にとっていたと認識しています。そして、「アウトプット信者」になったことがこのパソコン依存を加速させたのだと思います。朝起きた瞬間にパソコンを開き、何かしたの動画を流す外出するまでパソコンは起動しっぱなし。

 

そして、どこに行くときもノートパソコンを持ち歩いていました。用事が済んだら、近くのカフェでブログ書こうと自動思考が働いていました。もちろん、このような状態である当の本人は「やりたいことをやっている」と思っていました。

 

そんないわゆるデジタル依存だった私ですが、何の気なしにパソコン断ちをしてみようと決心しました。まず、デスクにあるパソコンを閉じパソコンケースにしまいました。そして、目の届かないところに移動。意外と、パソコンを触りたいという欲求は薄れました。そして、見えてきたのは自部屋の様子。掃除が行き届いてない床や書類が散乱している箇所などがどんどん目に飛び込んできました。この現実を覆い隠していたのがネットなのだと感じました。そして、「所有物は果たして、今の自分に合っているものなのか」と吟味をはじめました。

 

もともと、(こだわりが比較的強い方なので)物を買うのが苦手だったのですが、明らかに昔買い揃えたものたちは、今の自分に合っていないと思い、インテリアを買い替えました。居心地の良い空間を作るという視点を持つことができたのがパソコン断ちの成果の一つとなりました。

 

そして、もう一つ。「アウトプットしなければいけない」という義務感からの精神的解放を会得しました。今まで、様々な本を読んできましたがその中で「アウトプット能力が私には足りてない」と気付かされたことがありました。自分の考えを表現できないことでフラストレーションがたまったり、自己実現の妨げになっている感覚に囚われたのです。だから、私は様々なネット媒体(はてなブログ、note、ツイッター、インスタ、youtube)を駆使し、ほぼ毎日大なり小なりアウトプットをしていました。そして、アウトプットできている自分に酔っていたと思います。

 

しかし、私の「根を詰めすぎる」性格が災いし、いつしかそれは「ストレス発散の手段」から「なりたい自分になるための必須の行動」と化していきました。つまり、アウトプットに取り憑かれた思考回路になってしまったのです。ブログの題材を書きとめたり、思いついたことは全てメモやツイートに残したりしていました。

 

このような状態は、無意識的に自分の精神をじわじわと疲弊させていきました。この状態に自身は意識することができませんでしたが、体の疲れが長期間取れなかったり、感情の起伏が激しくなったりと弊害は生じていました。

 

パソコン断ちをして1ヶ月、今までの家時間の過ごし方が一変しました。動画を見る時間が本を読む時間に変わり、ツイッターをする時間がストレッチや美容に費やす時間に変わりました。

謎の焦燥感が減り、余裕が生まれた実感を得ました。

 

私はスマホよりも圧倒的にパソコン派なので、スマホ断ちはしていません。しかし、完全なネット断ちでなくともやってよかったと思えます。小学生の頃からパソコンを触るのが大好きで、あらゆることをやってきました。「パソコンがない生活」というのは本当に久しぶりの感覚で、新鮮でした。(重症ですね。)

 

現在、これを書いていますので、パソコン復活させています。しかし、元に戻るのも気が進まないので適度な距離感で付き合っていこうと考えています。おそらく、意思の力では限界があるので、家のデスクを撤去しようと思います。デスクに座るとパソコンと向き合う構図となり、ご飯もそこで食べるという悪習が根付いてしまいます。絵的にもよくないので、デスクをなくし、ソファを購入しようと考えています。

 

パソコンでのアウトプットは外(カフェなど)のみにしようと思います。会社員で働いている手前、家はリラックス空間であるべきだと思います。そして、休日はほとんど、カフェに居座るのでそこの時間だけ(結構長い)パソコン由来のアウトプットをしようかなと。長年、連れ添ってきた大きいデスクとお別れするのは寂しいですが、私の現生活を思うと家具の選定と部屋のレイアウトを変えるべきだという結論になりました。

 

これから、目星がついているソファを再度見学に行こうと思います。

7万弱の美容投資ピコフラクショナルレーザー記録

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経緯

大学生の時、美容整形外科へ出向きニキビのレーザー治療について話を聞きに行ったことがあった。そこで説明を受けた話は衝撃的だった。顔に針で無数の穴を開け、豚の成長因子を注入するという内容。説明してくれているスタッフさんの顔は完全なる整形顔だった。恐ろしくなったのと、高額な施術料で退散したのだった。

 

社会人になり改めて肌が綺麗になりたいと思い、肌の施術についてたくさん調べた。

そして、「ピコフラクショナルレーザー」に行き着いたのだ。肌に負荷をかけ過ぎず、ダウンタイムがなく、安全性が高いのが特徴だ。自分で稼いだお金を使う自由を手に入れた私は、思い切って施術を決めた。

 

選んだのは一番シンプルな施術だ。プロセスとしては、「ピコフラクショナルレーザー照射→ジェル塗布」。クリニックによっては、豚の成長ホルモンを投与し、肌の生成を促すオプションをつけることができる。これにより肌の再生を促進させることができるのだ。

しかし、20代前半の肌の再生機能を信じ、シンプルなものを選択した。全5回コースで1ヶ月に1回のペースで受ける。7万弱の美容投資だ。高額だが、自分のコンプレックス払拭のためには仕方がない。見た目はもちろんのこと、心の健康にもコミットする投資である。

来店時にカウンセリングを受け、その日に1回目の照射。今では痛かったということしか思い出せない。

 

 

2回目照射

1回目を終えているため、慣れたもの。特に肩に力を入れることなくクリニックへ。

この日は、化粧をせず素肌で向かった。(マスクありがたやぁ)

いざ、施術。痛い。(タトゥを入れたことはないが、多分同じような痛みに違いない!)歯を食いしばって耐える。あれ、1ヶ月前こんなに痛かったっけ。(帰宅後号泣した。)

痛みは時間の経過で薄れるという事実を体感した。(出産の痛みも忘れるっていうしね。)

 

スタッフさんは「痛いですよね」と優しく声をかけてくれた。1回目は顎からの照射だったが、今回はおでこから横に照射。そして、縦方向にも軽く照射していった。一回目より丁寧だと感じた。5分間の照射だったが、終わった後は放心状態に近かった。本当は、施術後、買い物をする計画を立てていたのだが、その元気は残っておらずまっすぐお家へ帰った。赤身はニキビ跡の部分と眉間が目立つくらい。顔全体が赤くなることは1回目同様なかった。

 

翌日は、やはり痒みが気になった。しかし、1回目よりはおちついていた。部分的に痒くなる程度だからだ。1回目は全顔が無性に痒くかなり身体的ストレスだった記憶がある。そして、翌日は会社が休みだったので一切化粧をせず、日焼け止めだけ塗ってすごした。

一週間後は痒みがおさまり、二週間後にはざらつきがなくなる。見た目の変化は、頬あたりの毛穴が小さくなった。ニキビ跡も薄くなった気もするが、2回目では消えないようだ。

 

また、ピコフラクショナルレーザーは肌質改善の効果もあるそうだ。しかし、私の場合は相変わず生理前にはシコリニキビができてしまう。基本的に毛穴やニキビ跡に効くレーザーなので、ニキビ本体には効果はない。しかし、毛穴トラブルはニキビを誘発するので間接的にニキビに効く。残りの3回の照射で期待したい。

 

3回目照射

2回目の激痛のイメージがあったが、3回目は2回目よりはマシな痛みだった。おそらく、気温が下がった時期に受けたのが影響していると思う。表皮が冷えていて、感覚を鈍らせていたのだと思う。(ピアスを開けるときに、氷で冷やすのと同じ原理。)もちろん、鼻下や目の下あたりの皮膚の薄い部分は痛さで体が強張った。3回目で思ったのはピコフラクショナルレーザーは冬にやるべきだということ。血流がいいときは痛みや痒みも倍増するし、炎症が出やすい。

 

施術後当日は、若干の痒みがある程度だった。赤味はそこまで現れなかった。(これは、私の体質だと思う。)2日目は、2回目よりも痒みは少なかったが、細かい白ニキビが頬や口周りにできた。そして、顔全体にざらつきがある。私は2連休のあるときにしか施術を受けない。1日目に受けて次の日はメイクをせずに過ごしたいからだ。

 

1週間後には、肌の状態は落ち着いてきた。しかし、私の体質上生理前は肌荒れとニキビがひどくなる。だから、ピコフラクショナルの施術をしてから一ヶ月のうちで肌の状態がいい時は生理後の1週間しかない。それ以外は肌ストレスに悩まされる。これもあと2回で、終わりが来る。それを希望に、無駄に落ち込まないようにマインドセットをする。

 

 

心理的変化について

肌質が少し改善してきて家にいる間で、肌のことを考える時間が減ったと感じる。

しかし、それに伴って顔のパーツに目が向くようになった。顔の形や横顔のフォルムなどが気になるようになったのだ。整形にはまる人の気持ちが少し分かる気がした。私は、肌以外の施術は受けないと決めているので整形をする気はない。ただ、一つの外見的コンプレックスが解消に向かうと他のものが見えてくるということを知った。詰まる所、全て自分の「思い込み」なんだと思う。「外見を気にする」という体質は、外科的になにかをしても変わらないということ。この心理体質を変えるは難しく、特定のコンプレックスを除去すれば全て解決すると思い込んでしまう。では、どうすればいいのか。これを知るためには心理学を勉強する必要がある。という結論に至った。そのため、私は「こころ検定2級」の勉強を独学で始めた。精神の勉強をして、自分と自分の周りの人の心を健康にしたいと思ったのだ。心が正常な状態ではないのには原因があって、心のメカニズムを知ることで原因になにかしらのアプローチができないか模索したい。(こころ検定2級については別の記事で書く。)

 

 

4回目照射

4回目の照射は、今まで一番痛みを感じにくかった。といっても痛い。そして、照射後の肌荒れや痒みも以前と比べると小さかった。慣れたのか、寒さで感覚が麻痺していたのか理由はわからない。見た目的な変化は、正直感じられないが肌質は改善されたかなと思う。ニキビ(特にシコリニキビ)自体ができにくくなったかなと思う。毛穴やニキビ跡は効果が実感はできていない。しかし、自分の顔は毎日見るものなので変化を感じにくいという可能性が多大にある。客観的に見れば多少変化があるのではないか。次回が最後になり、やっと痛みから解放されると安堵する一方、施術を決めた当初に思い描いた肌にはなれていないことに対して残念な気持ちがしている。

 

 

5回目照射

前回の照射から3ヶ月も開けてしまったが、タイミングが来たので行って来た。経過としては、赤みが薄くなり毛穴もおそらく薄くなった。が、当初想定していた肌質にはなれていない。それでも、多少なりとも改善が見られたのでよしとする。

5回目の照射は相変わらずの痛さだったが、少し慣れたこともあり涙を照射中に泣きそうになることもなかった。最後ということもあり、しっかり目に当ててもらえた。特に次の施術を勧誘されることもなく終了した。当初は施術後は戦意喪失で家に帰っていたのだが、この日は買い物へ行く余裕があった。身体的痛みは心に悪影響を及ぼすが、心の状態がわりかし良い時だと痛みも和らぐのかもしれない。

 

まとめ

5回の照射を終え、ピコフラクショナルレーザーのコースが終了した。コロナの影響でマスクをするのが日常であったから、連休でなくとも照射ができるというのはメリットだったと思う。効果は、自分が実感するよりかはあったと思う。自分の顔は毎日見ているため、効果がわかりにくい。しかし、以前撮った写真などと今の自分の肌を見比べると変化がわかる。まだまだ理想には及ばないが、一旦美容皮膚科への通院をストップし様子を見ようと思う。

 

 

転学、中退を考えている理系大学生に告ぐ

f:id:mamizuharuka:20210205202144j:plainこんにちは、まみずハルカです。今回はタイトルにもあるように転学や中退を考えている理系大学生に向けて思うことを書こうと思います。はじめに言っておきますが、私は転学も中退もしていません。

 

 

 転学について

まず、転学について。

理系学生だと特に、専攻科目がたくさんあると思います。勉強していくにつれて、この分野は自分には合わないのではないかと考えてしまう人が一定割合いると思います。これは、自分の学科しか知らないために他の学科の方が楽しそうに思えるからだと思います。イメージ先行で学科を選んだはいいものの、原理や一見役に立たなそうに思えるものを学ぶことが必須になります。その時点で学びのモチベーションを持てる人は数学者志望の人くらいしかいない気がします。

 

しかし、大半の人はそこの科目を通過して行きます。学びのモチベーションがなかったとしても将来のため、または卒業のために通過していくのです。将来就きたい職業や学びたい研究などが明確な場合、モチベーションがなくてもこなせると思います。しかし、それらが明確ではない場合目の前の勉強をするのは苦行だと思います。闇雲に与えられた授業を受け、頭に入れなければいけないからです。

 

私も「絶対この職業につくぞ」というものがなかったので、基礎の勉強はほとんど好きではありませんでした。また、専攻の科目であっても面白いと思えるものばかりではありません。大学前にイメージしていた内容とはかけ離れているものが多いのも事実です。そして、私は「自分の将来に繋がりそうにない」「このまま惰性で勉強をするのは嫌だ」と思い転学を視野に入れ始めました。まず、この時点ではネガティブな動機です。ネガティブな動機のまま転学してしまうと、転学先でも同じように意欲がなくなってしまうリスクがとても高いと思います。避けても避けても同種の問題は発生するからです。

 

だから、転学を決定する前に転学先を吟味する必要があります。必修科目や卒業生の就職先を調べる必要があります。また、現在所属している学科がなぜ向いていないのか洗いざらい書きましょう。その書いたことが転学することによって解決するのか考えましょう。この工程を怠って突飛な考えで転学してしまうのは早計です。ここで、問題の本質が見えてくると思います。大抵の場合、転学では解決しない場合が多いです。

例として私が自分の学科に対して持っていた問題を書いていこうと思います。

 

・細かい設計が苦痛

・将来の職業が魅力的ではない

・授業がつまらない

・別のものに興味がある

・勉強しても理解できない

 

ざっくりとこの5点かなと思います。

一つづつ見ていくと転学では解決できない問題が孕んでいます。

 

「細かい設計が苦痛」。

設計に限らず、数字をプロットすることや同じ作業を繰り返すことも得意ではないと考えられます。理系学科への転学の場合、パソコンでの単純作業はついて回るので逃れることはできません。文系学科への転学では解決できるかもしれません。

 

「将来の職業が魅力的ではない」。

その業界の企業に入って、有用な機能に特化するだけのものを作るのに自分の人生をかけられないと思ってしまいました。別の人間ではなく私がその会社で働くことで、なにか有益かと考えると疑問に感じてしまいました。しかし、これは雇われる立ち場である限りこの問題を払拭することはできません。自由裁量の部分があったとしても100%自分色を出すというのは不可能です。だから、それを理由に転学するというのはちぐはぐだなと思います。(起業するなどの選択が必要。)

 

「授業がつまらない」。

これは、どこの学部でもほとんどの授業はつまらないに決まっています。なぜなら、特に理系の場合教えなければいけない内容が厳密に決まっているからです。面白いと思う授業をするためにはストーリー仕立てにしなければいけません。時間が決まっている授業の中では大枠を進めていかなければならないので、ストーリーもくそもありません。これは大学の構造上できません。

 

「別のものに興味がある」。

これがあることで、その別のものに関連する学科に転学しようと思い立ってしまいます。滅多に興味が変わらない人であれば転学すべきだと思いますが、私のように興味の変化が早い人は赤信号です。いざ転学したとしても、その先でまた別の方向に興味が出た場合同じような悩みを抱える可能性が大きいからです。現に、今の学科に入るのにもそれなりの興味があったわけで、それに対して興味が持続しなかったという試料が取れているのです。

 

おそらく、全力でその分野に向き合えていないのが原因の一つだと思います。これは誰が悪いわけでもないと思います。ただ、興味を掻き立てる機会に恵まれなかった。自分から求めに行かなかったのだと思います。自分から求めにいくのはなかなかの労力が要ります。

理系の場合、とっつきにくい内容が多く入口の時点で、やる気が喪失してしまうこともあります。堅苦しい字体の文章を読み続けるのに近いです。自分がこの努力を大学生の時点でできなかったので、人にも勧めません。が、遅かれ早かれ気が進まない勉強をこの先の未来でやっていきます。そして、別のことに興味がありそれに関連する職業に就くために転学をするのは本気かどうか自分に問わなければいけません。決して、今やっていることから逃れることを理由にしてはいけません。理由の一つにしてもいけないと思います。

 

私の場合、クリエイターになりたいという漠然と考えていました。クリエイターと言っても様々です。そして、私がなりたいクリエイター像もばらばらでした。イラストを描きたい、文章を書きたい(ブログ、小説)、映像を撮りたい(映画、動画)、音楽を作りたい、音楽を奏でたいという散漫な思いが交錯していました。こんな定まらない状態で転学するのは危険だったと思います。芸術系寄りの学科に転学しようと企んでいました。特に、私が当時やりたいと思っていたことは大学で勉強する必要のないものばかりだったと思います。(それ系の大企業に就職するつもりなら有効だと思うが、就職しなくてもこれらはできる。)

 

「勉強しても理解できない」

これは勉強量に問題ありです。といっても、全部を理解しようとすると時間は足りません。(例えば、公式の意味などを考えだすといくらでも深ぼることができてしまい、数学者の域に達してしまいます。)私が一番嫌だったのは、理解できない数式をいくつも組み合わせてできた公式があり、それをまた活用してどんどんつなげていくプロセスです。理屈(数値上の整合性)はわかりますが、何をやっているかの説明が授業やテキストやネットの検索エンジンでさえ抜け落ちているのです。

理屈で進めているはずなのに、「そういうものだから」という人間的な思い込みを持って進む必要性があることの矛盾がありました。この矛盾の繰り返しで、勉強ではなく機会的作業と化します。本質的な理解をしないまま進んでいました。勉強量を増やせば、それなりの理解ができるようになるかもしれません。あくまで私の体感ですが、1日1専門科目に対して最低1時間は要すと思います。プラスで、復習の役割での試験勉強といったところでしょうか。1日平均3時間専門科目のみに費やすことできれば、ある程度の理解はできると思います。(私はできなかった!)割と勤勉な理系学生でも、脳死の勉強(意味を理せずに暗記する勉強)をしているかと思います。その比率の大小の違いだと感じます。

 

中退について

 

実際に中退しているわけではないので、これに伴うリスクの話をする気はありません。(リスクについては理系の大学中退者経験談を参考にしてください。)

しかし、「中退」という言葉は多少頭によぎっていました。なので、それを実行させないようにする考え方を紹介します。

ずばり、「親のため」に大学を卒業すること。

大学入学までの教育費を考えると、大学を卒業せざるを得ないのです。(小学校からの塾費用、私学中高の費用、大学費用etc..)

「自分のため」という目的を変に掲げてしまうと、「やりたくない」「やる必要がない」ことが正義になってしまいます。だから、自由な選択ができてしまいます。

しかし、「親のため」と割り切るとそこで自分の思考が遮断されます。正常な思考ではない自覚はありましたが、現状の行動改革に有効なものでした。ので、昔の私みたいな人にはオススメしときます。

 

 

大学入学時に知りたかったこと

 

理系大学生に関しては、その道に進むための専門科目の授業の割合が極めて多いです。(学科によるかもしれません。)

その中で、基礎科目として文系の選択科目が多少あります。この選択科目がのちの資格取得に役立つ可能性を秘めています。私は現在、資格の勉強をしていますが、資格登録の際に、大学で必要科目を取得するのが必須となっているケースが少なからずあります。この必要科目なしで登録するためには、ユーキャンなどで資格取得などの講座を受講する必要があり、お金と時間の無駄になります。(独学をすると必要なのは登録だけなので、講座は意味がない。)そのため、資格を生かした仕事をする可能性がある場合は、該当の資格について調べそれに必要な科目を受講するといいです。大学の受講科目を増やすのは、おそらく制限がないので必要そうな科目は保険として履修するのもありかと思います。(「〜学概論」など履修しやすいため負担にならない)

 

以上、理系出身者の文系社会人のひとりごとでした。

では、また〜

 

入社半年以上経った新社会人のリアルな思考を納めておく。

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まずは、みんな大好き入社前後のギャップについて。私の場合を例にとって書いてみる。

入社半年以上が経ち、仕事にはそこそこ慣れてきたと感じる。しかし、想像以上に社会人は忙しい。私は大学時代のらりくらりと過ごしていたタイプの人間だったので、社会人の生活は未だに体質が合わない笑。

 

入社後2〜3ヶ月は無駄なやる気に満ち溢れていた。誰よりも仕事を早く覚えて、同期の中で一番になりたいと。しかし、社会人は120%のやる気を出してはいけないことを半年経って悟った。当方、完全に燃え尽きてしまったのだ。特に、嫌な出来事があったわけではないのに、家に帰った途端自然と涙が溢れることが頻発した。単純な疲労は精神を蝕んでいく。仕事を中途半端にしたり、「仕事=お金を稼ぐ為のもの」と置くのがとても嫌だった。だから、私の一番の仕事上の目的は「自己成長」一択だった。だから、自分の成長につながるのかという視点を常に持って仕事をしていたと思う。具体的な仕事内容を書きたいところだが、コンプライアンス上良くないので濁しておく。

 

しかし、「自己成長」の曖昧さと実体のなさにイライラしていた時期が来た。ちょうど入社してから3ヶ月後だった。仕事を覚えてできることが増えたという実感はあった。しかし、これが自己成長なのかという疑問を覚えた。スキル習得といえば聞こえがいいが、単にこの仕事に私の行動を「適応」させたことに過ぎないのではないかと。中二病的考え方かもしれないが、その仕事内容には「私らしさ」は微塵もないと感じてしまったのだ。

 

仕事の中で、研修という名の教育も受けた。新入社員はまずは基礎を習得する。そして、30代・40代になって初めてその経験を生かしてクリエイティブ職につけるとキャリアプランを示された。ほとんどの大手企業はこのような段階を踏む道筋があると思う。もちろん、自分で考えて行動することも少なくはない。そこには確実に「成長」があるのだ。しかし、その成長は実感が乏しい。理由は、できないことを痛感する方が成長を実感する時間よりも圧倒的に多いからだ。頑張っても頑張っても、「成長の実感→幸せ」のプロセスを踏めないのだ。

 

入社後は、上司に怒られることが多かった。出来ないことをできるようにしたいという思いから、成長になりそうなことを優先的に選択的に仕事をした。(この時、ちょうど「エッセンシャル思考」という本を読んで影響をかなり受けた。)わからないことや知りたいことがある所の方が成長があるという理論で動いていたのだ。その分、人よりミスをした。そして、上司に注意された。当時は、上司に評価されたいという思いから従順に言うことを聴いていたのだが、一部部分しか見ていないのに評価を下す上司に対して不信感が日に日に増していった。

 

本当なら、ここでアサーティブなコミュニケーションを築き、自分の感情を露わにせずに、また相手を尊重しながら自分の意見を丁寧に伝えるべきだ。しかし、コミュニケーションが苦手な私は上司のコミュニケーションを切ってしまったのだ笑。つまり、「上司からの評価はどうでもいい。自己成長と仕事のことだけ考えよう。」という思考に至ったのだ。(相変わらずの0-100思考で書きながら、自分に嫌気がさす。)

このやり方を3ヶ月続けた。客観的には成長できたかもしれないが、やはりその実感がなかった。できることが増えても、こころが満たされないのだ。

 

ここで、私は「幸せは自己成長のみからは生み出せない」という結論を出した。幸せの条件は他者貢献(社会貢献)だという知識は持っていたが、実行に移せていなかった。マズローの欲求の5段階があるが、自己実現欲求だけがあふれていてその下の社会的欲求や承認欲求が希薄で満たされていない状態だったのだ。この5段階は下から順に満たされて初めて上の段階に進める。物理的には社会に属しているものの精神的に孤独だったのだ。

 

そもそも、どうして私はここまで「自己成長の度合い」に固執しているのか。それは人よりも強くなければ、自分を愛すことができないからだ。正確に言うと、現状に満足しておらず成長すれば自分を愛すことができるという思考に取り憑かれているのだ。しかし、これは間違っている。結局、「成長すれば」という過程であり、また「成長できたかどうか」は自分の主観であり、いつまで経ってもその成長を実感することはない。過去を振り返ると、いろんな種類の努力をして実を結んだこともあったが満足感はほとんどなかった。自分に厳しいのは、決して美徳ではないと私は思う。自分を追い込んで、たくさんの何かを得ても、心を満たすというベクトルには進まない。

 

これからの私に必要な軸は「他者貢献」。安直な言葉と捉えていた「他者の笑顔が見たい。」「困ってる人を助けたい。」を原動力に変えていく必要がある。私にはその王道の視点が足りていない。これからは自分に足りないものを意識して動くのではなく、「人に無条件の愛」を提供していきたい。ちょうど心理カウンセラーの勉強を終えたので、カウンセラーの基本態度を生かそうと思う。「純粋性」「無条件の肯定」「共感的理解」。全部、今の私に足りてない笑。これを意識して行動を変えていこう。また、半年後に同種タイトルのブログを書く!

 

2018アウトプットまとめ1

 

チェーンカフェのススメ

 

カフェ巡りが好きな女子多いですよね。

 インスタに載せるためにカフェに行ってる人も多い気がします。

 

もし、写真を撮ってシェアするというコンテンツがなかったとしたら

あなたはそれでもカフェに行き続けますか。

 私は行き続けます。チェーン店のカフェに。

 

おしゃれなカフェに一人で行くと長居できない気がします。

 "落ち着ける空間"と書いてあっても大抵、人気店は混んでいます。

また、人気店でない所はコーヒーの味や店員の接客など何らかの問題があります。

 

"雰囲気を楽しむ"と言っても「キョロキョロする時間」で何十分も潰せるはずがないです。

 

だから、おしゃれなカフェには人と一緒に行くのが基本条件だと思います。

(ここで言うおしゃれカフェは喫茶店ではなく、"映えばカフェ"のこと!)

 人と行ったらおしゃべりがメイン目的であるため、長居できますね。

 

では、私のような「一人でコーヒーが飲みたい人間」はどうすればよいのでしょう。

ずばり、チェーンのカフェに行きましょう!

 

チェーンカフェの良いポイントは一人でも長居できる所です。

パソコンやノートを広げることができます。

充電できる所も多いです。

コーヒーの味が悪くない所も多いです。

選べば、混んでいない所も多いです。

 

私は、チェーンのカフェが大好きで頻繁に行っていると思います。

少なくとも、

「趣味はカフェ巡りです!」と言っている女子大生よりは行ってます

しかし「カフェ好き=おしゃれカフェ好き」という概念を持つ人が多いため、

チェーンカフェはカフェに入れてはもらえそうにないです。

 

「趣味はカフェ巡り!」と言ったら可愛いですが、

「カフェチェーン店を巡っています!」というのは可愛くもなんともないですね笑

 

それでも、私はチェーンカフェに行き続けます。 

同じチェーンの店でも、場所によって雰囲気が全然違います

だから、「巡る」という行為は意外にもチェーン店にもできるのです。

そして、面白いです。

 客層、机と椅子の配置などなど見るべきものはたくさんあります。

 皆さんも比べて、体感してみてください。オススメします!

 

テレビがYoutubeに勝つには

 

私は、普段テレビを全く見ません。

なぜなら、見たい番組がないからです。

一方、YouTubeは毎日と言っていいほど見ます。

 

この違いは、「ターゲット層」だと思います。

テレビは「万人受け」するものを作っています。

一方、ネットの動画は「その情報を求めている人」が対象です。

 

若者のテレビ離れが著しいですが、どうしたら若者がテレビに戻ってくるのでしょうか。

 

ニュースは良いとして、それ以外の番組でも万人受けするものに走る傾向がある気がします。

ターゲット層を広げたほうが、番組を見る人口を増やすことができると制作者が考えているからだと思います。

 

しかし、今の時代は人によって興味の対象の多様化が進んでいます。

 だから、ネットで情報を選択して見たいものだけを見るという人が増えました。

 

つまり、ターゲット層を広げることで誰にも響かない番組になるということです。

辛うじて、ネットに弱い年配者の支持がいまだにテレビにはあるので生きながらえています。しかし、これも時間の問題ですね。

 

ここまで、テレビ番組をボロクソに書いてきましたが、テレビの強みはあります。

クオリティ」です。

ふんだんに使える作成費と情報収集能力で他では到底マネできないです。

 だから、やるべきことは

クオリティを保ちつつ、ターゲット層を絞る」ことだと思います。

 

例えば、

"お笑い好きファンのため"のネタをずっと流し続ける番組。

 音楽番組は、ジャンル別に別の番組にするなどしたらどうでしょう。

きっと「その時間はテレビをつけよう」という気になると思います。

 

 

「暇だからとりあえずテレビをつけておく」という時代は終わると思います。

 

しかし、テレビ業界はなんだかんだ言って保守的ですよね。

だから、ネットに潰されてしまう未来が来る気がします。

(元テレビっ子の悲しき見解...)

 

何かしら改革した方が良いのではと感じます。

 

前髪とサイドと茶色とミディアムロングと 

 

 

街を歩いてるとふと、ほとんどの女性が

前髪とその横の毛(サイド)がありナチュラルなブラウンのカラーの髪

であることに気づきます。(あと、長さはミデイアム)

 

流行ってるからやってるのでしょうか。

一番可愛く見えるからやっているのでしょうか。

美容院の椅子に座ったら自動的にその髪型になるのでしょうか。

 

どのような意図でその髪型を選択しているのかわかりません。

しかし、こんなにも同じ髪が街中に溢れていると見ている側はつまらないなと感じます。(少なくとも、私はそう感じます)

 

やってるほうも

「他の人と区別がつかないこと」は嫌なはずです。

(誰もが多かれ少なかれ自己顕示欲を持つから。)

 

みんな同じ髪型にすることで他の部分で評価される。

つまり、顔の要素が余計大きくなってしまうと思います。

(顔の面積を小さくするために作っただろう前髪が、顔の重要度をあげてしまうというジレンマ...)

 

美人は皆と同じことをすることで際立ちますが、

美人ではない人は同じことをしていても美人の引き立て役にしかならないと思います。

 

そこで派手髪や刈り上げにする必要はないと思いますが、

他の所を目立たせることで顔の重要度が下がると考えます。

 (顔以外の)別の所で評価してほしいと願う女子は髪型を一般化しすぎない方がよいと考えます。

 

もちろん、同じ髪型をしていたとしても評価してくれる人はいます。

しかし、その普通すぎるスタイルで第一印象の時点で興味を持ってもらえないことはあると思います。

 

私自身、パッと見た時に「自分らしさがない人」と感じる人には自分からは近づかないです。 

 

「人と違うことをする=人に見られる=嫌われるし、好かれる」と思います。

(好き嫌いの振り幅が大きくなる)

 

誰からもそこそこに好かれたい(嫌われたい)か、

根強いファンをつけたいかの二択ですね。

 

私は圧倒的に後者を推します。

 

人間関係で置き換えると

 広く浅くタイプか、狭く深くタイプかの二択かもしれません。

 

広く深くタイプが一番良いですが、これができるのは才能がある人と尋常でない努力をする人に限られます。

凡人は時間のコントロールが下手なのでほとんどが上記の2パターンに分かれると思います。

 

狭く深くタイプを推すわけではないですが、

仲良くなりたいと思えるのはこのタイプかなと個人的には思います。

(信頼度が高いため)

 

話が逸れましたが、言いたいことは

 「みんな髪くらい遊ぼう!」

「会社もそれを許そう!」

 

試験時間の癖

 

自分の癖に自分が気付くことは難しいですが、人の癖は気になりますよね。

 

特に隣の人が貧乏ゆすりをしていたり、紙をめくる時に荒々しかったりすると気が散ってしまいます。

 

先日、私はTOEICを受けに行って来たのですが、そういった類の人がいました。

 その人は、試験開始1分前までミンティアを食べまくっていました。

もちろん部屋は飲食禁止ですし、試験直前はカバンから不要なものを取り出してはいけません。

 そして試験が始まると問題が難しくて諦めたのか、机に手を置かず体の横で手をヒラヒラさせていました笑

 私はそういう人の行動で気が散ってしまうタイプなので隣の人のテスト中の癖に気付きがちです。

 

試験中などは高まった集中力で自分の姿が人にどう映っているかを忘れる瞬間だと思います。日常生活では無意識に気をつけていることが、この時には無防備になります。

 だから、試験中の人の姿が真の姿なのかも知れませんね。

 

あるいは、人の集中力を鈍らして平均点を少しでも下げようという意思が働いているかもしれません。(抜本的解決にはならない。)

 

芸人という素敵な職業

私は高校生の頃からお笑いにはまって、よく無限大ホールに若手の吉本芸人を見に行ってました。笑うことは絶対的にいい事で人を笑わせることが生業の芸人は

なんて素敵な職業なんだろうと思ってました。(今も思ってます)

 

直接的に幸せを届けることなんてなかなかないと思います。

美味しいお菓子を食べてもお腹を抱えて笑うことはありませんし、お菓子を作るメーカーに勤めたとしても直接お客様の笑顔を見ることはありません。

 

そう考えるとお笑い芸人は人の笑顔を感じとれる、まさにWinWinの関係の最上級であると考えられます。

 

当時私もお笑い芸人になりたいなぁと軽く思ったことがありましたが憧れる芸人は

男性ばかりで芸人の世界はまだまだ男社会なのかなと思いとどまりました笑

 

さて、実際、自分が芸人になったらどんな未来が待っているのでしょうか。

 

まず、周りがお笑い芸人だらけの異空間に身を置くことになるだろうと思います。

きっと、オフの時でも常に面白いことを考え仲間同士でボケ倒しそこで手応え後あったものをテレビで発表するのだと思います。一般人と話すよりきっと面白いのではないかと思います。

そして、切磋琢磨し自分のトークスキルを上げることができるのではないでしょうか。

(英語圏に留学してネイティブの中にいれば必然的に英語が話せるようになるみたいな)

 

一般人だと会社で事務的な話をして1日が終わるかもしれません。

しかし、

芸人の場合は日常の面白いことを話すのが仕事なので人間としての深みが人に伝わりやすくなり幸せを感じやすくなるのではないでしょうか。(自己開示でセロトニンが出る的な)

 

また、舞台に立つ数が圧倒的に多いので緊張しにくくなるのは良いなと思います。

 

このように芸人になると人として成長できる気がします。

他の仕事も各々成長できると思いますが、1回芸人としてスキルを身につけると他の仕事をすることになっても絶対役立つ気がします。(この方が効率的だと思う)

 

皆さん芸人になりましょう笑

 

オープンデスクについて考察 

 

 

 オープンデスクは、その名の通り広い空間に机が置かれるような開放的なデスクのことです。これは、クリエイティブな発想が得られるために取り入れられている場合が多いです。本来、人と意見を交換しながら事業について話し合うビジネスの場で機能していたものだと思います。

かく言う、九州大学伊都キャンパス中央図書館にもご立派なオープンデスクが設置されています。ここでは、九大生が各々の作業を静かにこなしています。

 

しかし、私はこのオープンデスクで勉強するのが苦手です。

 

よく「勉強のできる子は、リビングで勉強する」という話を聞きます。

リビング勉強法でやってきた人にとってはオープンデスクでの作業は合っているのかもしれません。

 

残念ながら、私はリビングで勉強をしてきていません。

勉強する時は、自分の部屋に籠ります。

また、親などが部屋に入ってきたら直ぐに中断します。

「人が入ってきたら勉強するふりをする」という描写が漫画などに出てきますが、

私はその逆で人に勉強している姿を見せたくない性格でした。

 

大学の図書館のオープンデスクでは、多くの大学生が課題をしています。

人の視線があった方が作業に集中できるのでしょうか。不思議です。

 

「オープンデスク=想像力活性」というイメージがありますが、ゾーンに入ると周りが関係なくなるのでオープンデスクの意味がないと思います。(あくまで、「オープンデスクで一人で作業する」ことについて書いています。)むしろ、ゾーンに入るまでの時間を考えると個室や一人用の席の方が効率的に思えてなりません。

 

また、個人的にパソコンの画面やノートを誰かに覗き込まれるのが嫌いです。

実際に覗き込まれていなくても、背後に人の気配がするのがあまり好きではありません。

 

理想では、個室の勉強部屋を設置して欲しいですがこれは実現不可能ですね。

 

せめて、隣の人との区切りと前の人の視線が気にならないようする壁をつけて欲しいです。

 

PMSを知って欲しい

 

PMSという症状のを知ったのは2~3年前ですが、ネットで見た瞬間私はまさにこれだ!

と思った記憶があります。

 

PMSとは月経前症候群のこと。生理前や生理中にイライラしたり悲しくなったりする女性特有の症状です。女性全員がこれに悩まされる訳ではないですが、多くの人が生理前は感情のコントロールが効かなくなるそうです。

人によって、症状の大小は異なりますが、私の場合は精神が不安定になります。

 

最近は、ストレスが少ない生活をしているので生理前はニキビに悩まされるくらいですが、半年ほど前までは確実にPMSの症状が出ていたと思います。

 

「こんな事で泣く?」という所で盛大に泣いたりしていました。

他の日は物事をポジティブに考えることができますしテキパキ動くことができますが、

この時はそうは行きません。

 腹が立ったり、全てが無意味に思えてくることもあります。

 

この精神の不安定さから「これ私、鬱かも...」と思った時期もありました。

「病院行った方がいいかもなぁ」と感じていましたが、

すぐケロッと(1~2日で)治って、その後の1ヶ月間は平穏な生活が訪れるのです。

 

本気で泣いている時は病院に行く気になれず、病院に行ける時はすごく元気

というジレンマだったと思います。

 

生理痛に悩んでる女子はよく聞きますが、PMSは"日常的すぎる"ため

あまり話題にならない気がします。

 

得意のネットサーフィンで色々調べたのですが、PMSの原因が曖昧だなと感じました。

 大体の病気の原因は生活習慣またはストレスと書かれがちだなと思います。

「自力で無理なら病院行け」というのがお決まりの締め文句ですね。

(ニキビができる原因と同じじゃないか!)

 

ストレスが減った今現在、この症状がほとんどでなくなっているため

「PMSの原因ストレス説」はあながち間違ってはいないと思います。

 

仕事をしたり、勉強したり、人に会ったりと不可避なストレスが多い世の中ですが、

共に適度にストレス発散していきましょうね

 

自分の性格

 

誰しも嫌なことがあったり悲しくなることがあったりしますよね。

それを乗り越えて今の私があるわけですが、

どうやって乗り越えてきたのかを整理しようと思います。

 

まず嫌なことがあったら私は、思いっきり泣いたり癇癪を起こしたりします。

(一人暮らしの特権で周りを気にせず発狂できます笑←近所迷惑!)

 

感情の起伏が収まった後、原因を追求します。

そして、だいたい人のせいにします。(プライドは高い)

 

人がどうしてそのような行動をするのかと考えた結果、

自分が何か悪かったのかもと思います。

(理由を突き止めたい性格なので)

 

意外にもこの経験は次に行かせます同じ共同体では実践できないものの、

 別の所属で全く新しい自分を構築できる時少なからず、成長を感じれます。

 

だから、私は現状を抜け出し新しい環境に身を置くことが大好きです。

 

周りの人が変わると自分が変わるのはかなり楽です。

 

キャラに引っ張られることもないし、よく知らない他人だからこそ堂々とできるのでしょうか。

 

自分を知られれば知られるほどその人の心の中に私という典型が作られ、

それをぶっ壊すのはエネルギー(ストレス)がかかります。

 

私に限らずこの行為は苦手な人が多いと思います。

 

例えば、隠キャ的存在がいきなりパリピの言動をしたら

人は好奇の目を向け避けるでしょう。

 

私は、どのキャラにもなってみたい願望があります。

 だから、これからも所属や機会を転々して行くと思います。

 人一倍強い人間になるために。

 

私の音楽と私の記憶

 

私は、小学校高学年からiPodで音楽を聴き続けています。

当時は、ポルノグラフィティやいきものがかりを死ぬほど聞いてました

 

もちろん、音楽の趣味は変化します。

私は一つの曲を気に入ったらリピートして飽きるまで聞く人間です。

だから、再熱して同じ曲にハマることはほとんどありません。

 

しかし、懐かしい気持ちになるために、ふと昔聴いていた曲を聴くことがあります。

 すると、当時の記憶が思い浮かんできます。

つまり、当時の心境と同じ気分を味わえるのです。

 

例を挙げましょう。

私は、雑貨屋でアルバイトをしていたことがありました。

その時、店内で頻繁に"ブルーノマーズ"のアルバム曲を流していました。

だから、今その曲を聴くと当時の"バイトの暇さ"が思い出されるのです。

あまり聴きたくないですね。

(いい思い出の曲も、もちろんあります。)

 

常に、音楽は私の隣にいます。

自分の気持ちの代弁者を探したり面白い発想の歌詞やリズムを探すことが好きです。

 

私は自分の音楽を作ってはいないですが、今まではまった曲を一部づつ切り取って

一つの曲にしたら自分のテーマソングが出来上がるのではないかと思います。

(作ってみたい...)

 

年老いてその曲を聴いたら、絶対に感慨深く感じると思います。

音楽に救われたり、失望したり色々なことがありますが、

この先も音楽から自分は離れられないと思います。(ロックバンドかよ...)

 

その当時の自分とリンクした音楽は、私の過去の記憶を思い起こさせる手がかりになると思います。(なんか、歌詞っぽくなってきたぞ...)

 

次はどんな音楽にハマるのでしょうか、楽しみです。

 

久々の運動は不健康?!

 

私は現在、運動のサークルに入っていません。

このような大学生はジムとか行かない限り運動しないですよね。

 

私は、気が向いたときに頻繁に

柔軟やストレッチをする方ですが、全然足りていないなと思っています。

 

そして数日間、柔軟をしなかった場合体がミシミシしてきます。

 

一方、全く運動をやっていない人をみると体の不調を訴えていないことが多いのです!

(関節がポキポキなることもないですし...おかしい...)

 

つまり、運動を一切やっていない人の方が健康的に見えるのです。

(もちろん、中肉中背の人限定ね)

 

どういうプロセスで体がミシミシするのかと言うと...

 

使っていない筋肉を動かす

実際、使わない

けど、そこに筋肉があるということを体は覚える

そろそろそこの筋肉動かそう

イタタタた

 (証明終)

 

 

運動をしない人の場合、このプロセスに乗ってないため

イタタタたと思うことはないでしょう。

(老人になった時に違いが出ますように....)

 

そもそも、使ってない筋肉を動かすって変な話ですよね。

 

筋肉は動かすためにあるものだから日常生活で動かしていない筋肉ってなんのためにあるんでしょうか。

(どうして、それを鍛えると健康になるのでしょうか)

 

分かりませんね。

(医学部じゃないので、全て仮説となっております悪しからず...)

 

何れにしても、

体ミシミシタイプになってしまった私

このループから抜け出せないので

今日もまたストレッチに励むしかなさそうです。

 

 

 

2019アウトプットまとめ③〜私の話〜

 

 

私が1円にもならないブログを書き続ける理由

 

私は2年前からこのブログを書いています。

 

初めは、アフェリエイトで稼げるかもと思っていましたが

お金のために記事を書き続けることは私にはできませんでした。

 

なぜならブログの性質上、初めの1年間はアクセス数が伸びないからです。

お金のために、1年間無給で書き続けるのは相当に根気がいることだと思います。

(だから、ガジェット系のブロガーさんは尊敬してます。)

 

だから、私のブログ投稿の軸としては「自分の書きたい事を書く」という事です。

売れっ子のブロガーさんに「それ、どこに需要あるんだよ!ニーズを見極めろ!」とか言われそうですが、やはり私はこの軸をぶらす事はできません。

 

では、なぜこのブログの書き方に私は執着しているのでしょうか。

なぜ、この1円にもならないブログを書き続けているのでしょうか。

 

理由はいくつかあるので挙げていきますね。

 

・自分のことをデータ化するため

 

私がブログを書く一番の目的はこれかもしれません。

人の記憶はとても曖昧で、どんな経験をしてもどんな学びがあってもすぐに忘れてしまいます。

私にとってそれは、とても恐ろしいことでした。

自分の人生を後から見ようとしても、ぼんやりしてしまいます。

だから、自分の考えや起こしたアクションなどを記録することで後から振り返りやすくなります。

また、ネット上で公開することで、この先見てくれるであろう潜在的な読者にも自分の思いを伝えることができます。

 

 

・直接人に言えないことを伝えるため

 

日常生活では、人と関わります。しかし、人を傷つけないように細心の注意を払うのが現代人は身についていると思います。

私も例外ではなく、人に言って良いことと悪いことをわきまえているつもりです。

しかし、心の中では誰しももっと深く考えていることがありますよね。

そういったことをブログに書くことで、人の共感や反対や意見が得たいのだと思います。(あるいは、自己顕示欲を満たしたいのかも。)

 

・自分の心の整理のため

 

自分の心のうちでうっすら思っていることを文章化すると

自分の考え方が浮き彫りになってきます

「自分はこういう人!」となんとなく思っていても、そこに成長はないなと思います。

だから、自己分析のために自分のことを文章化しています。

書くことによって、見えていなかった自分の特性が見えてくる感覚がします。

これは、文章を書き出してからしか分からなかったことだと思います。

 

・文章力強化のため

 

私は、文章力をつけたいと日々思っています。

文章を通じて、たくさんの人に発信したいからです。

将来、小説か何かを書いて出版したいです。

そのためには、文章を書き続ける根気がなくてはなりません。

また、わかりやすい文章を心がけなければなりません。

だから、「文章を書くこと」を習慣化させようと思ったのです。

 

 

・ストレス発散のため

自分をさらけ出すことは、よいストレス発散になります。

おしゃべりな人の方が、無口な人より長生きなのもストレスに起因しているそうです。

(プライバシーを守りつつ)自己開示していくことは、精神の安定に役立っていると思います。

実際、私はブログを書き始めてから明るくなった気がします。

自分の内に秘める事は自分を守っているようで、心を蝕んでいるのかもしれませんね。

(また、キーボードを打つ感覚もハマるとストレス発散になります!)

 

以上、私が1円にもならないブログを書き続ける理由でした。

たとえツールが変わったとしても、これからも書き続けたいなと思っています。

 

 国立大学生が日本の学校教育に難癖をつける

 

クラスメイトと授業の話をする場合

 「眠い」とか

「テストやだー」とか悲しいことに、ネガティブなことばかり言いますよね。

(好きな授業の話題が出る確率約0.5%...)

 

嫌なら授業を受けなければいいのですが徹夜までして、しっかり勉強するのです。

(今の教育上、自由な学びというのは少ない気がします) 

 

最初から勉強したいものだけをすれば幸せですよね。

興味が変わったらその時に、勉強内容を変える方が勉強意欲も増すし、知的好奇心も養えると思うのです。

 

「学ぶ」という行為は大切だと思うので学ぶ練習の場として学校の存在は必要だと思います。

 

しかし、興味の湧くような内容であっても、それを無理にやらされたら生徒のやる気が失せてしまうことは不可避でしょう。

(暗記は勉強ではないんだよな...)

 

また、先生と合う合わない(好き嫌い)でもその教科の好き嫌いが分かれてしまうと思います。

 

 先生を選ぶという生徒の権利は尊重すべきだと思います。

(早く、動画での授業で1科目あたり100人の先生がいて、そこから選べるような時代になったらいいのにね)

 

昭和の授業と今の授業ほとんど変わっていない気がします。

(昭和の授業を受けたことがないから分からんけど...)

 

グローバル化 、IT化と謳われ社会のあり方は猛スピードで変化していますが、教育は変わりにくいですね。

 (昭和の教育にどっぷり浸かってきたようなおじさんが教育プランを作ってんだろうな)

 

仕事でも結局、今の技術が使えればOKで開発している人はほんの一握りの人間ですよね。

 

つまり、「応用より基礎」とバカの一つ覚えみたいに言われる文句は将来の仕事においては成り立っていないことも多いように思えるのです。

 (仕事って最初から応用だよね)

 

既存の技術を掘り下げて、根元(公式、法則)を教わったとしてもそれらの繋がりを理解していなければ、その勉強は意味を持たないと思います。

(教育の不満は永遠と語れるのでまた、別の記事にあげよー)

 

もっと実用的な教育になればいいなと思いました。

(愚痴っぽくなってしまった...いかんいかん)

 

(教育は課題が多すぎて私の手には負えないと思い、教育の仕事には絶対つかないと高校生の時悟りました笑

やるなら根本から変える必要があり、教育業界に構える大人達に対抗するエネルギーは私にはないです笑)

 

周りには多くの問題が溢れていますが、それに関わったら自分の時間の多くをそれに費やすことになるため問題解決はものを選んでしなければなりませんね。

 

私がAKBよりモー娘が好きな理由

 

AKBとモーニング娘。の特徴の違いを私なりに分析していきたいと思います。

(※「どの子が推し!」とかの紹介ではありません)

 

私は、AKBよりモーニング娘。が好きです。

この二つのグループはどちらもアイドルのトップ集団ですがカラーが違いますね。

だから、人によって好みが分かれると思います。

(他のアイドルについては今は置いときます)

 

共通点は若い女の子が一生懸命に青春を費やして歌ったり踊ったりしているところですね。

アイドルが頑張ってる姿は元気をもらえるからアイドルヲタクが増殖し続けてるのです。

 

さて、AKBとモーニング娘。の違いをあげようと思います。

(総合的に見た印象です)

 

<AKB >                                       <モー娘>

かわいい          かっこいい

声が高い          声が低め

人数が多い         人数がそこそこ

清純派           テイストが色々

    

こんな感じですかね。

 

AKBの子笑顔をいつでも振りまき、見た瞬間人を癒してくれる感じがします

 

一方、モー娘かっこいいテイストの曲が多いです。

キメキメの顔で歌っていて、応援したくなります。意志が強いように見えるのです。

また、ダンスの振りガニ股になったり、お腹から低い声を出すパフォーマンスがあったりと

恥ずかしがっていては成り立たないです。

 

AKBはこのようなパフォーマンスはない(少ない)と思います。

(恥ずかしがっている=かわいい  になるから)

AKB系列のアイドルはグループごとにテイストが違いますが

それぞれのグループのテイストは固定ですよね。

(RIVER以外かわいい系?)

 

一方、モー娘は曲ごとにかわいい系、カッコイイ系ざっくばらんなのでテイストがコロコロ変わります。

 

曲のテイストが変わるということは、アイドル本人自身のテイストも変わってきます。

だから、いろんな面のアイドルを見ることができます。

 

以上の理由で、私はモー娘の方が好みだなと考えました。

 

月間漫画の付録について〜子供時代〜

 

今はほとんど月間漫画というものを買わないのですが、小学生の時よく買ってもらっていました。

 いつ買ってもらっていたかというと、留守番の時や新幹線に乗る時です。

 私は小学館から出てる「◯◯年生」や

ちゃお」や

なかよし」や

リボン」を

読んでいた記憶があります。

 

友達が読んでいたからという理由もありますが。

 

一番の原因は付録でした。

 

本に付いている分、お得感があるキラキラしているものが多かった気がします。

 

カンペンケースラメ入りのペン

キャラクターがついたシール

何に使うかよく分からないポーチ

色々ありました笑

 

なぜか普通にメモ帳やペンをお店で買うより特別にそそられるものがあるんですよね。

 

中身を知っているにも関わらず開ける時のワクワク感がありました。

 

あの感覚を今、取り戻すことはできないのかな寂しくなります。

 

大抵、他の人も同じ漫画を買っていたりして持ち物が被ってしまうのにそんなことは気にしません!

 

だったら雑誌でついてくるもの(バッグなど特に)を使うのがためらわれます。

 

また、付録としてついてくるものは実用的でないものが多かったです。

 

それこそお店で買うよりチープな素材?ですぐ壊れるようなものだったり使いにくいものが多かったです。

 

プリンの顔のついた判子いつ使うねん!という感じです。

(1~2回使って終了〜)

 

それでも当時は、大切に保管していました。(今も探せば出てくるかな)

 

おそらく、今はもっと魅力的なものが周りに溢れているため

小物単体目が行かなくなったのだと思います。

 

小さい頃は自分の私物といえば文房具くらいしかなかったはずなので

極端に意識が向いていてその結果かなと思います。

(自分の趣味が反映されるのは文房具くらい)

 

おそらくこの感覚は戻ってきません

当時、大切に持っていたシールやメモ帳はこれからも取っておこうと思います。

 

私の洋服事情

 

私は、もともと服が大好きでたくさんの服を購入していました。

街を歩けば、古着屋を物色していました。

ウィンドーショッピングに限界を感じ、通販で効率よく洋服を選ぶようになりました。

 

たくさん服を買うと当然、着ない服も出て来ます。

私は、いらなくなったもの(着なくなったもの)を捨てるのが得意なので

これらの服をじゃんじゃん捨てていました。

これが約1年前の私です。

 

今の私は 、服をあまり買わなくなりました。

なぜなら、バイトをしてない分際で買いまくるのは気が引けるからです笑

服を買う習慣が無くなると、不思議と服に対する物欲が薄れていくのです。

習慣って怖いですね。

「服を買うぞ!」と意気込む前に、息を吸うように服を買っていたら

服が増えて当然ですよね。

 

服を買う量は減りましたが、捨てるのは今までと同じペース

 つまり、クローゼットの中の服が減少しているのです!

 

思えば、

私たちは破れたり汚れたりしていない服を捨てますよね。

 

ファッションのために服を買い換えるというのが当たり前になっていて

何回も来た服を古い服と思って飽きて捨ててしまいます。

 

安い服をたくさん買ってたくさん捨てるという文化ですね。

 

一方、ミニマリストの人は全部で10着くらいに収めるらしいです。

 丈夫な服をずっと着るということなのでしょう。

 

安い服を買っては捨てていた自分にとって、ミニマリスト系に進むのか

はたまたファストファッションを続けるのか決めかねます。

 

ものが良い服を飽きずに着る事ができるのか。

いろんなテイストの服を着てみたいのか。

 

年齢を重ねる度に模索する事ですね。

 

おそらく、ミニマリストになる!と極端なことはしないと思いますが

 

チープな服を買いまくることもまたしなくなるのかなと思います。

(福袋買ってないな...)

 

洋服との関わり方は年々変わってきますね。

1年後くらいに再び洋服事情については言及しようと思います。

 

 

 私の「将来の夢」はこう変わっていった!

 

将来の夢は、年齢によって変わって行くと思います。

 特に子供の頃は、常に何かに影響を受けるため、

将来の夢もコロコロ変わります。

 

ここで、私の将来の夢歴を分析していきたいと思います。

 

<保育園時代>

編み物屋さん

→理由は、当時編み物がとにかく流行っていて、家でも保育園でもハマっていたから。職業として、編み物屋さんというものがあるのかは未だにわかりません。発展途上国には、あるかもしれないですね。

 

幼稚園の先生

→理由は、小さい子のお世話(遊ぶ)のが好きだったから。単純ですね。幼稚園の先生は幼児と遊ぶだけが仕事ではもちろんありません。

 

<小学校時代>

宇宙飛行士

→理由は「女の宇宙飛行士」というイメージがカッコよかったから。当時、山崎直子さんが脚光を浴びていたと思います。その影響ですね。

しかし、虫歯の人はできないと知り諦めました笑

大学の先生

→理由は、お金持ちそうだと思ったから。また、大人に言っても恥ずかしくないと子供なりに感づいていたから。実際、仕事内容は全く知らなかったです。まさか、研究が仕事だったなんて....

 

<高校生時代>

海上自衛官

→理由は「女性の自衛官」というイメージがカッコよかったから。しかし、よく調べると厳しそう(自由が少なそう)であることが判明。防衛大に行かなくてよかったと思っています。

建築家

→理由は物理が得意だったから。また、家のデザインを考えるのは面白そうだったから。建築家は一握りの天才しか自由に建物を建てられないことがわかり断念。

 

<大学生時代>

起業家

→理由は、留学で起業の考え方に影響を受けたから。しかしあまりにも、大きいリスクを負うことになるので決断できなかったです。

サラリーマン

→安定した職業を持った上で、副業をして軌道にのったらやめるという構想から。

フリーランス

→一つの職業にとらわれず好きな事を好きなタイミングでできるのに魅力があるから。

研究者

→自分のアイデアで物が作りたいから。(自分の成果が会社の利益になるのは嫌だ...)

 

こんなところでしょう。

小さい頃は、たまたま出会ったものにすぐ影響を受けている感じがします。

一方、年を重ねて行くと視野を広く持って決めている気がします。

 

よく将来の夢はどんどん現実的なものになってしまう...

悲しそうに言う人がいますが

それだけ

「視野が広くなった!」と思えば良いのだと思います。

 

全く、将来の展望が見えていないモラトリアムな私ですが

自分なりの人生を送りたいと思います。

 

 マスクマンだった私がマスクを脱ぎ捨てた理由

 

みなさんの周りにもマスクマンが一人はいるのではないでしょうか。

 私の大好きだったマスクについて書きたいと思います。

 「大好きだった」という過去形からわかる通り、今はマスクをすることはほとんどありません。

しかし高校生の頃は、冬になると頻繁にマスクをしていたと思います。

 

一般的に、風邪予防・喉の保湿がマスクの効用ですが私はそれ以外の用途が多かったです。

 

まずは、肌の保湿のためという理由からです。

これは自分の吐く息に含まれる水蒸気によって肌が潤うという理屈により使っていました。

(おそらく、ネットの情報で始めたのでしょう)

 しかし、ネットの情報というのもあって信ぴょう性に欠けますね。

そして、私は別のネットの情報と自分の経験から判断して、マスクは肌に良くないと結論づけました 。

長時間、マスクをつけていると雑菌の繁殖の原因になることと マスクと肌に少なからず摩擦があることが最大のマスクをやめた理由です。

 

「肌に良い」と思っていても実際は悪いということがあるので多面的に物事を見なければいけませんね。

 

もう一つ、私がマスクを多用していた理由として「人に顔を見られないようにするため」というのが挙げられます。

 

顔のニキビがひどい時やメイクをしていない時など

 とにかく自分の顔をさらけ出すのが恥ずかしいと思った時や外に出るテンションになれない時にマスクをします。

 

マスクをすることで、「知り合いに偶然会ったらどうしよう」と恐れながら外に出る必要がなくなるため気が楽なのです 。

これは一見、便利に見えますが習い性になるのは危険だなと思いました。

 

なぜなら、「自分の顔=マスクをした顔」というのを定着させてしまうと自分のリアルを覆い隠すのが当たり前というメンタルになるからです。

 

もちろん、それを言うなら女性がメイクをするのも「リアルを隠す」ことではありますが

 マスクはやりすぎです。

マスクをつけて自信を持って振る舞いたいというより隠れたいという欲求の方が強いからです。

 

メイクはリアルの自分より綺麗に見せて自信を持って行動したい!というポジティブな動機付けなのに対して、

マスクの場合はネガティブな動機な気がします。

 

もちろん、今の私でもテンションが下がって朝から外に出たくない!と思うことはあります。

 

しかし、これも本当の私なんだ!と思うことで諦めて外に出ています笑

 

この悪い状態の私を見て嫌いになったり、態度を変えるような人はろくな人ではないはずです笑

 

「良い状態の私=本当の私」として私自身が思い込んでしまうのは傲慢な気がします。

 

こうして、私はマスクを脱ぎ捨てました!

 (ついでに、花粉症も発症しなくなったからもうマスクはいらない)

 

健康茶の味が好き

 

 

ルイボスティー

マテ茶

ドクダミ茶

人参茶

苦茶

ハトムギ茶

 

以上は私が今まで飲んできた「癖のある味」を持ったお茶です。

健康茶の代表例ともいえるでしょう。

(ドラッグストアの健康食品コーナーに陳列されているイメージ)

 

これらは、決まり文句として「健康に良い」と売られています。

 

正直「健康になった!」と感じることはないですが、

 ハトムギ茶を飲むとニキビができにくくなると言われてしまうと

ニキビに悩んでた頃は、飲まないわけにはいきませんよね。

 変な味のものこそ、効果がありそうな気がしてしまいます。

 

まさに、「良薬は口に苦し」という刷り込みがあるのかもしれませんね。

 

半年前くらいに、常飲茶をハトムギ茶から烏龍茶に変えました。

そして、烏龍茶はなんて美味しいんだろうとずっと飲み続けてきました。

 

最近では烏龍茶に飽きたため、思いつきでルーボスティ を買ってみました。

 飲むとなぜか懐かしい味がしました。

  

普段お茶をたくさん飲むのですが、毎日のお茶のレパートリーが増えて嬉しく思います。

ちなみに、ルイボスティはカフェインフリーであるため常飲するにはとてもオススメです!

 

 

飲み物に限らず癖のあるもの(香辛野菜など)は最初は変な味だと思って距離を置いてしまいがちだと思います。

しかし、食べ出すとむしろ好きになってしまうことがありますね。

  

 味の許容(?)を広くすることで、食(飲)がもっと深く楽しめると思います。

 

だから、パクチーが嫌いな人も勇気を出してパクチーを貪ってみてください。

(パクチーが苦手な人でも何回もトライしてみたら、治るのでは?)

 

よくバラエティでセンブリ茶を芸人が罰ゲームで飲んで顔を歪めていますね。

私はセンブリ茶を飲んだことないのでどれくらい苦いのかは分かりませんが、いつか挑戦したいと思っています笑

 

知り合いに似てると言われたらスパイになろう!

 

先日、インターンに行ってきました。

(もはや、いろんなインターンに行くのが趣味になってる笑)

 また、言われましたよ。

「私の先輩にめっちゃ似てる人がいる!」と。

 

私は、「知り合いに似てる」と言われることが結構あります。

 

雰囲気が似てる」とか

喋り方が似ている」とかを含めると

何回言われてきたことか。

(何十回言われてきたことか。)

 

「昨日、◯◯に居たでしょ?見たよ。」とか

「間違えて違う人に声かけっちゃった!」とか

酷いのになれば、「旅行先(海外!)で見たよ。」と言われることもあります。

 

その度に、「私のドッペルゲンガー何人おるねん!」と心の中で突っ込んでいます笑

 

私は個性的なファッションが好きで人と被らないようなものを好んで着ます。

にも関わらず、「似ている」と言われるのは

よっぽど顔が似ているのでしょうか。

 

私の主観では、私自身の顔を掴みどころの顔だと思っています。

美人でもなければブスでもないということです。

 

 

日本人全員を並べた時に、私の顔がちょうど真ん中にくるのではないかなと思います。

(平均顔ではなく中央値顔という言い方が正しいかも...)

(顔出しはしないつもりですが...)

 

顔に良い意味でも悪い意味でも特徴がないので

芸能人にはなれないと思います。

 

美人ではなくても特徴的な顔はやはりインパクトがあり

顔を覚えてもらいやすいと思います。

芸人さんも含めてこれは言えますね。

 

反対に、自分が向いているのはスパイかなと思います笑

スパイは自分の顔を覚えられないようにするのは鉄則ですね。

スパイになる気はないですが、

なったとしたら怪人二十面相も夢ではないかもしれません。

 

話は、逸れましたが

「知り合いに似てる」と言われるのは反応に困ります

大抵、嬉しそうに私の反応を見ながら言ってくる方が多いです。

しかし、私も嬉しそうに対応するのは何か違うと思うのです。

私自身は、その似ている方がどんな方なのか分からないからです。

未だに、正しい回答はわかりません。

 

ただその人が私とコミュニケーションを取ろうとしてくれているというのは事実です。

だから、毎回笑顔で対応しています。

 

ネットを調べると

誰かに似ていると言われたくない人が多いそうです。

しかし、似ていると言ってくる人はそのことを伝えたいという意思があるはずです

つまり、嫌と思う必要はないと思います。

 

ゲーマーとは対極にいる私のゲーム人生

 

 

私のフィールドではない「ゲーム」について語ろうと思います。

 

現在、私はゲーム機所有数0・スマホのゲームアプリ0という

ゲームから隔離された生活しています。

 

しかしこんな私でも、昔はゲームを1日中しているほどハマってた時期があるのです。

 

発端は、小学校1年生の時に買ってもらってDSだと思います。

多分、初期のやつです。

 

ポケモンダッシュ」というポケモンがいかに早く走るかを競うソフトを買ってもらいました。

初めて、買ってもらったソフトだったので何時間もDSに食らいついていた記憶があります。

(今考えるとクソゲーだよな...)

 

その他に、思い出に残るソフトは「わるお」です。

これは気が狂ったようにやっていました

クリアした所も、やれるところまでやり続けていました。

結果、DSの画面が崩壊してしまいました。

(画面がビリビリに笑)

 

これらは頭を使うものではなく、単純作業のようなゲームでしたね。

でもこれこそが「ゲームの中毒性」の原因だと思います。

 

他には「たまごっちがありました。

友人たちはは首からたまごっちをぶら下げて遊んでいました。

帰る時間もたまごっちの時間を見て帰れるため、時計の代わりにもなって便利ですね。

(親が置い与えやすいのかもしれない)

 

私が持っていたものは普通のサイズではなく中くらいのサイズでした。

 ミニゲームをひたすらやり続けていたと思います。

常にたまごっちを携帯し、合間合間にいじっていました。

 

「たまごっち」に飽きたきっかけは、はっきりと覚えています。

時間の設定を変えると、新しいキャラ(?)が来ることを知った時です。

 

その後は、iPodやスマホのゲームにハマりました。

RPGなどの映像綺麗系のゲームは一切手を出さず、ハマるのはやはり単純系のものでした。

 

テトリス

パックマン

蛇のやつ(名前知らん)

球を壊していくやつ(名前知らん)

 

これらが、特に時間を費やしたゲームだと思います。

(昭和に存在していたゲームばかり笑)

肩や手を痛めながらずっとやっていました。

「クリアした!」と思うためではなく、義務として無心にやっていたと思います。

(この感覚わかるかなー?)

 

このように、一生分のゲームを小中高でやりきったと自負しています。

だから、大学に入ってからゲームをほとんどやっていないです。

(そういえば、Wiiも家にあったのにそこまでハマらなかったな...)

(きっと、ゲーム好きの人は「単純系は真のゲームではない」って思うんだろうな...)